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Germanistik, Philosophie(Aufklärung, Phänomenologie, Logik), Biologie, Musik und Kunst

記録:Andreas Blank (2022) Christoph Besold on confederation rights and duties of esteem in diplomatic relations

Andreas Blank (2022) Christoph Besold on confederation rights and duties of esteem in diplomatic relations. In: Intellectual History Review, 32:1, 51-70.

https://doi.org/10.1080/17496977.2021.2001886

Blank先生は以前Paderbornに、今はオーストリアのKlargenfurtに所属している。Erfurtの自然法研究プロジェクトの協力者で、今年の6月にはここゴータで開催されたSennertの自然哲学についてのカンファレンスでお会いした。その後今年開催されたライプニッツの国際大会でも発表されていたとのことを同僚から聞いた。とても気さくで変わった、優しい人だった。色々調べていてTimplerとBesoldに突き当たったので研究文献を探したらともに彼が書いていたので改めてこれまでの研究を色々参照させてもらった。

彼の最近の研究には基本的に政治交渉の場におけるself-esteemに関連するものが多く含まれている。17世紀自然哲学の思想史的研究から、政治思想史の研究に軸足が移っているようにも見えなくもない。しかしいずれにせよ私もこの二つの領域が交差する場所で研究しているので、移ったという表現を用いたいとは思わない。

さて、なぜ自己尊重(self-esteem)なのか。これはおそらく最近のtrustの概念とついに考えた方が良いだろう。いずれにせよ交渉の場において、どのような意思決定を下すかは、self-esteemがどのようになされているかの関数だ。この論文ではこの概念が国際関係についての考察でどのような意味を持っているのかについての概略は以下の文献を参照するようにとある。

Friedrichs, J. (2016). An intercultural theory of international relations: How self-worth underlies politics among nations.

この論文は自己価値(self-worth)には、名誉(honor)、面子(face)、尊厳(dignity)が含まれ、あくまで文化的・理論的な構成概念に過ぎないこれらの要素はしかし、実際人々の行動や意思決定に影響を与えるということが経験的に確証されているということを、いくつかの研究を引いて前提としている。さらに、これら自己価値は自己や自己集団の境界を設定する上で重要な要因となっているということであり、特に集団内部での協力関係の識別に関して重要な役割を果たしていることが示されているという。Friedrichsはさらに踏み込んで、尊厳概念を中心とする文化においては、個々の主体に自己価値は内在していると考えられており、面子概念を中心とする文化においては、外在的かつ承認的に参照集団によって自己価値が決定されると考えられており、また名誉概念を中心とする文化においては自己価値は内面化されているとはいえ、特定の他者が敬意を払わない場合には競合的にもなる、という図式を提示している。

このような図式が果たして心理学的に確かめられるものなのか、彼があげる文献だけかが十分支持されるのかについてはここでは判断を保留しよう。しかしながら、こうした構成概念が実際歴史的・文化的に用いられている以上、ある行為や意思決定の説明として用いられてきたことは事実であり、そのような概念によって理解されるべきロジックがあると理解されていることもまた事実だ(これらの概念が因果的能力を持っているのではない。当然だ。しかしこれらの概念を前提とした説明を自己においても信じることである行為が正当であるとして行使されることは因果的な説明となっているという主張はありうるだろう)。そして歴史上そのような説明を前提としたかのような行為は繰り返されてきたわけだ。

従って、行為のパターンの自己価値の区分が対応しているかどうかはともかくとして、自己尊重が意思決定に深く関与しているだろうことは明らかであり、それゆえにこれが思想史の分析対象として浮上することは十分可能だろうと思われる。self-esteemはより包括的でプライマルな概念であるようにも思われる。Blankはこう述べている。

In early modern German natural law theories, one finds an alternative view of thinking about these matters; a view according to which duties of esteem toward political communities should reflect the degree to which they fulfill the functions of the law of nations, such as just warfare, peace keeping, and forming confederations.

自然法・万民法には、この問題について異なる観点を見出すことができるという。そこではesteemは、審級に応じて区分されるような自己価値とは異なって、他の政治集団が万民法の要請に応えている度合いを反映させているという。つまり相手が「野蛮」であるとすれば、esteemは下がるということになるだろう。確かにそのような判断が不当であれなされてきたことを容易に思い出すことができる気がする。

いずれにせよこの論文の趣旨は、従って、自然法についてのBesoldの議論を、self-esteemの観点から整理するということにある。Christoph Besoldについては当該の論文、もしくは独語版wikipediaを参照のこと。またこの論文の本旨についても各人ご覧いただければと思う。続きは気が向けばここにも記録する。

 

日記:2023年10月7日

今日は気分が悪くない。9月の終わり頃から次第に心身ともに落ち着きを取り戻した。長い学生生活、そして5年の非常勤生活で大学歴に体がすっかり順応しており、夏学期(春学期)と冬学期(秋学期)が始まる頃には一応帳尻を合わせたように調子が戻る。

気温もすっかり下がって、風が強いと涼しいし、空気を入れ替えていると肩が凝りそうなほど冷える。だがそれでも体がこの日照の少なさと涼しさに慣れてきたのか、本当に楽になった。睡眠はうまく取れないままで、気分は低空飛行だが、上がったり下がったりするようにはいい。だいたいそんなふうにもう10年以上過ごしている。

冬の安定期は書くことも読むことも集中しやすく、落ち着いたトーンになることが決まりだ。だから今のうちに多くの原稿を仕上げるまで持っていこうと思う。

それにしたってドイツ滞在も折り返しであり、毎日のようにここで過ごせている時間に感激を覚えていると言ってもいい。終わりが見えてこそありがたみもあるし、そもそも生活から受けるストレスからようやっと解放されてきたのだろう。買い物一つとっても様々な問題があった時もとうにすぎて、季節の変化を楽しむ余裕が今はある。本当ならここからさらに二、三年滞在すればお釣りが多いのだろう。

毎日のように図書館で古い本と向き合えるようにもなった。ときどきではなく、毎日だ。そしてヴァイマルエアフルトに行くことにも積極的になれる。今はこのご時世で出かければracial harassmentに遭遇するリスクも上がるが、基本的に多くの人は、半分以上の人は友好的だし、ドイツ語がある程度使えれば尚更だ。

 

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最近毎日この曲が頭の中で流れている。Trentmøllerはデンマークの作曲家で電子音楽やギターを手にシューゲイザー周辺の音楽を世に送り出しているが、どれも素晴らしい。この曲は特に私は好きで、実際タイトルが表す通りの心持だ。

ドイツで過ごしている日々は全く白昼夢のようだ。ローマで発表して友情を感じたことも、その後イタリアを縦断旅行し、スイスでアルプスの山を散策したことも、ドイツ各地で様々な景色を見て、少なからぬ人々びと交流してきたことも。そして8月にSommerschuleでMartinと一緒に発表して、彼から労ってもらったことも、そう、そもそも彼のお宅を訪れて研究の相談をしたり一緒に文献を読んだりしたことも、世間話をしたりサッカーを見たり。これはまだ続く。そして再来週からハレでFulda先生のゼミにも通う。信じられないことにここのゼミやイベントと被ることはなかった。素晴らしい偶然。そんな幸運に恵まれているんだから時間を無駄にはできない。

研究以外にくたびれるようなことは、パートナーのおかげもあってほとんどない。結局ここまでの半年で、多少お互い神経がヒリヒリするくらいまで努力したんだと思う。それがここからの半年を支えるはずだ。いや、多分今後の人生をかけて、ここでの苦労が身を結ぶと思う。そう信じているし、そうでないはずがない。ここでの一年は、日本で過ごす十年だ。

まだ旅行にもいく。多くのイベントがある。そして研究もはてがない。どこまでも調べられる。ここに現物がある、書物がある、人がいる。Martinの存在は本当に大きい。彼のおかげで世界が広がった。日本にいた時にも、調べ物をして彼の名前にあまりにも出くわすから、それで結局彼にBetreuerを頼んだ。そしてすんなりと引き受けてくれた。資金があったのは大きい。だが結局彼が見ず知らずのよくわからない博士を受けれたことが全てであり、そこまでに助けてくれた人もいる。彼は、あるいは助けてくれた人は、独文の博士でありながら官房学や他のことに色々と関心を持って研究を進めていることを評価してくれている。珍しいことだ。だがそれはいいことなんだ。それでなければならないというのは学問ではない。学問は自由だ。すべきことがされ、真実がそこにあれば良い。真理は自由をもたらす。

だがこうした日々はまるで夢のようだ。まだ夢のようだ。ふとした瞬間自分は自分を上から見ている。自分を地球の外から見ている。なぜそこに、ここに、そしてなぜそれを、これを、そうしているのか、こうしているのか。起きているのか眠っているのかは関係がない。これが現実であるということが現実の揺らぎやすさを意味している。決まっていることなど何があるのだろうか。信じられないことは起こりうるから信じられないのであって、信じられることだけが起こるのであればそれはむしろ本当の意味での幻だろう。

胡蝶の夢、それはあまりにも現実らしく感じられたからこそ夢に過ぎない。自他の区別がある場所には思いがけないことが常にあるのであって、信じたくないことも、思っても見なかったことも、本当に起こってしまう。

 

10月3日にはドイツ統一の日を迎えた。その日私は気づかずにヴァイマルの図書館へ向かうところだった。ところがオランジェリーの庭園を通って停留所まで向かったところで気づいた。そして引き返した。単なる散歩に終わった。冷たい風が城の堤に沿って吹き抜け、色も薄くなった草の歯を撫でていく。そして枝が揺さぶられ、落ちてきた枝を私は拾い上げて持ち帰った。形がよく、落ちたばかりなので綺麗だ。

 

そうやって日々見出せるものが増えていたのはいい兆候と言える。

そして早々と済ませておくべきことが今になってわかってくる。もっと努力をする。そう、例えばエスプレッソ用のケトルはドイツに初めて滞在することになった人は必ず早く買うべきだ。というより日本でも買うことはできる。私はドリップよりもエスプレッソの方が好きなのだと気づいた。これで淹れたコーヒーを朝に飲んだら1日が鮮やかで、昼に飲めばくつろげる。醒めていなければ夢など見えず。

 

さて、イエナへ行くためメールを書く。

日記:2023年9月20日

すでに夜中には15℃ほどまで気温は低下し、日本でいえば晩秋の薫が空気を充している。星々はこれまでの季節で1番美しく見える。見上げれば二十以上の瞬きがあり、それは日本の都市部ではみることのできない星空だ。そのためにどれがどの星座であったかを即座に識別することもできない。ベランダに出ていつまでも空を見上げている。

 

 

この季節が好きだ。初夏と晩秋の、涼しく静まり返った夜に私は薄いブランケットをかぶって窓を開け放して本を読む。夜が美しい季節は決まっている。日本でもそうしたようにここでもそうする。ドイツにいても同じ。同じだろうか?同じではないかもしれない。そもそも私は10年以上そうしている。美しい夜には眠りが訪れない。この薫り、そして気温。そのせいで眠ることができない。心は静かに燃え上がっている。この穏やかな夜こそ物事を企み、現実的な夢を描き出すに適している。人々が穏やかに眠りに身を委ねるようなこの夜に、私はまだ怒りを、喜びを、憂いを、悲しみを、そして愉楽を手にする。一人でいられる。一人で、はるか東方で上がる戦火が治まるのを待っている。さらにはるか東の果てに潜む闇が祓われるのを待っている。待っているだけではない。私は読む。書く。

どこの町にも、どこの地域にも、どこの世界にも私の知らない人々が、この瞬間にも無数に自らの人生を生きているという事実、笑ったり眠ったりテレビを見たりインターネットを見たりトイレに行ったり食事をしたり愛し合ったり散歩したりイライラしながら残った仕事を片付けたりしているという事実、そしてある場所では夜を迎えある場所では朝を迎え、ある人は生を受けある人はそれを返している事実、ある生き物は犠牲となりある生き物は救われるという事実、海は白波をたて浜は洗われ、山では猿が叫び鳥が羽ばたき、火山が煙をあげ、氷河がとけ、はるか彼方では磁気嵐が吹き荒れ、そしてある星が生まれ、ある星が滅ぶという事実、メタンの氷が降るかと思えばダイヤモンドの塊が宇宙空間を彷徨っているという事実、あらゆる事実がいつでも心震わせる。夜、私は一人になって初めて事実を認識することができる。

そしてまた一つの事実も受け止めることができる。いつか、それがいつかは誰もわからない、いつでもいいというわけでもない、でもいつか結局私たちも離れてしまう。どのような形であれいつまでも一緒にはいられない。こうしてここで一緒に過ごした時間は、しかし決して過ぎ去っていくことはないだろう。どのような記憶も、私は気が緩むと即座に現実となってしまう。私はいつか、そのいつかがきた後に、君を探すかもしれない。全く忘れてしまうかもしれない。だがその忘却はあまりに鮮明な想起と共にある。矛盾する二つの状況を同じように記憶しておくことはできない。何かが失われた後、失われた過去を理解し、その後の時代を生きていくことができるだろうか。失われる前の記憶と失われた後の記憶が矛盾している時、どうして前者を取ることが許されないのだろうか。

時間。時間だけがこの矛盾を解消するだろうか。いや全く逆だ。時間こそがこの矛盾を引き起こす。時間の支配。時間が全て物事の秩序を独占しようとする。だが、そんなものはどこにもない。この独占は幻想に過ぎない。そのことに気づく時が来るだろうか。その時は私もこの世界にいるべきではない。夜、私は一人になって初めて空間も時間も一つではないことを理解する。

 

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