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Germanistik, Philosophie(Aufklärung, Phänomenologie, Logik), Biologie, Musik und Kunst

Cuticle of the Pear

A.

 その世界から抜け出したいか、君はレッドピルを飲むか。だがレッドピルは、この世の虚偽を暴き、真実の姿を剥き出しにするわけではない。そのような幸福eudaimoniaは君にも私にも無縁な話だ。この現実こそが、君が生きなければならない現実だから。

 どのような欺瞞も君には受け入れ難いのだから、その全てを暴くのではなく変えなければならない。だって、生命からは誰も逃れられないだろうから。自ら命を断つこと以外に、生命から逃れることはできない。でも生命はレッドピルを飲んでも君に真実の姿を明らかにすることはない。この現実こそが、君が生きなければならない現実だから。

 全ては敗北し、潰滅していく、まるで気弱なまま並んでいる洋梨を、軍人の拳が叩き潰していくように。君たちはみな視界を失う、いとも簡単に盲目へ陥って、それでも足掻いていれば、その迷宮から抜け出せると思っているだろうが、アリアドネ以外にルートを知っているものはいないから、その繊細な糸をちぎってしまわないように、落ち着いて手繰ればいいのに、そんなに力を込めるからほら。この現実こそが、君が生きなければならない現実になった。

 救いを求めても、どれほど熱望したところで、君が欲しかったのはこの世界での勝利に過ぎなかった。だからほら、この現実こそが、君が生きなければならない現実になった。それは海のように君をいとも簡単に溺れ死なせることができる。君も、君たちも、誰であれ、ここでは簡単に死んでいく。そして、どれほど愛していようと誰の死にも立ち会うことはできない。とても暴力的なんだ、抗っても無駄だよ。髪を剃り上げ、黒ずくめにしたところで、どんな祈りも金ピカのシャンパンほど甘くない。

 

B.

 マーク・フィッシャーが『資本主義リアリズム』で述べていることの要点は、次の2点だ。資本主義は、もはや私たちが生きる現実世界の隅々までを構成する超越論的原理になっているということ。そして、そのようなリアリズムからおさらばする方法は、もはや想像することもできない(とされていることで私たちは生き延びられるということ)。息を吸って吐く、生物学的に侵略されたこの自由は、金を稼いで使うという資本主義的に侵略された自由と同じように、私たちが所詮個として生きていることなど幻想に過ぎないと、そっと伝えている。資本主義がオイルで窒息させるように、生命は溢れる血痰で溺死させてしまう。どのような搾取が私たちを待ち受けているのか。

資本主義リアリズム

資本主義リアリズム

 

 リアリズムがどのような現実を突きつけてこようとも、私たちはそこから逃れる道を探さない限り、痰壷で溺れ死ぬ。一方にはマーク・フィッシャーの悲観があり、一方には丸山眞男の批判がある。丸山眞男はかつて「現実主義の陥穽」という小文で、俗世間に行き渡るイデオロギーを是認し、権力者に阿諛追従する小市民たちの肖像を、それということはなく描いて見せた。いや、そこに具体的なイメージは何ひとつないが、そのような病像が簡単に浮かび上がってくるだろう。これこそが現実であり、変更不可能であり、それに従い、それに対し合理的に振る舞うことだけが可能なことであり、それを拒んだり批判したりすることは、所詮現実を知らない若造のすることだ、という抑圧的な声は、どこにでも響くし、どこまでも陳腐なのだが、そんなことに苦言を呈する丸山眞男は本当はそうやって「革命的」大衆を非難したかったのかもしれない。 

丸山眞男セレクション (平凡社ライブラリー)

丸山眞男セレクション (平凡社ライブラリー)

  • 作者:丸山 眞男
  • 発売日: 2010/04/09
  • メディア: 文庫
 

  変化を求めるものであれ、今住まう現実で安穏としていたものであれ、そこには現実の構成と、それに対する判断、合理的行為の選択という一連の流れを暗黙に共有し、現実がどのように構成されるのかを反省しない。簡単に、扇情的に悲惨に応じてはならないし、同時に抗してもならない。現実を構成する根底的な原理の洞察なしに、老獪に二つのピルを調合して待ち受けている「一者」と争うことなどできるはずもないのだが。そんな「一者」などいるかどうか、その目で確かめるために必要なのは、どんな色のピルでも、あるいは闇を照らす月でもない。それはきっと現実を見せるだろうけど、騙されてならない。そこで語られることにも耳を傾けるべきではない。いつから私たちはこれほど素朴に経験を信じるようになったのだろうか。

 

A'.

 だが、それ以外何を信じるのだろうか。滑稽であっても。反省とかいうものは、ピルとは無縁なのか。それとも、臍の緒を伝ってきた、初めのピルなのか。そこでいつまでも夢を見ているのか。来るべき客人は、いつまで待っていればいいのか、誰も知らないが、きっと君が考えるのをやめて、その荷物をまとめてここから抜け出す時に他ならない。この迷宮はきっと、オリオンの腰帯のような泡立つ輝きをしたシャンデリアを吊るしたホテルなんだよ。いつまでいたっていい、快適なキングサイズだ。

 

 

B'.

 君はまるで腫瘍のように美しい姿で、この世界から摘出され、脈拍ち血を流しているうちに、トラッシュボックスに投げ入れられる。それは僕も同じだ。愛してる。

 

 

 

youtu.be

翻訳論覚書 I

翻訳は置き移す行為であり、ある概念的対象もまた別の言語環境という文脈に置き移された時、本来とは異なる色合いを帯びてしまう。言語表現のなかにあるのは、語や文の接続と言語的文脈、語用的/実践的/遂行的文脈のなかで様々に変わる概念的対象の独自の存在様態だけである。

 こうしたことを考えることは、その実言語の遂行的側面を考える手がかりになるだけでなく、意味論の深みへと降りていく梯子を用意してくれるに違いない。それだけではない、むしろ言語や記号が自律的な科学分野になる19世紀終わり以前では言語が常に世界観と比較されて論じられてきたように、そしてそれは正当な営みであると思うのだが、やはり言語は単なる指示の道具ではない。そして翻訳が直面するのは、この困難さ、言語の独自の性質が、自ずと社会言語学的なテーマを生み出すということだ。社会言語学がダイグロシアなどを問題にする時、そこにも翻訳の、言語の困難さが自ずと影を落としているのである。

 さしあたって手軽に参考になるのは、 ミカエル・ウスティノフの『翻訳』である。

そこにはこうある。

翻訳の威力は時に救いをもたらすが、その欠如はしばしば致命的である。現存する言語の九六パーセントが、地球上のわずか四パーセントの人口によって話されているという事実を思い起こすと、そこには明らかに大きな問題が提起される。*1

 私はTwitterでも常々英語の覇権について抵抗感を示してきた。というのも、当然英語こそが最も翻訳の活発な言語であるだろうから、それ故にこそ社会言語学的な問題が生じていると感じているからだ。

 ドイツ語圏での翻訳論の研究も蓄積があるため、今後順次追って行こうと思っている。私自身の博論や博論後の研究主題にはそれほど深く関係しているわけではないとはいえ、言語それ自体についての興味関心は消えることがないし、それを研究せずしていかなる文学研究も不可能であると思っている(これは言語研究に文学研究が還元されると言っているわけではない)。また、一人の作家や思想家による多重言語の著述についても、当然興味が湧くところではある。

 ところで、上述のような翻訳の困難さは言い古されたものでもある。私の関心が置かれているのは、そこにある一種の因果論的、形而上学的な問題や、社会言語学的な問題である。ここでまず覚書としておきたいのは、因果論的な問題である。

 以前から日本語の因果的・時間的な表現における冗長さが気にかかっていた。例えば英語では”with”、ドイツ語では”mit”、中国語では「用」という語で表現される、同時的、付帯的な事柄、また性質の表現が、日本語では難しく感じるということだ。それだけでなく、イメージの連鎖が関係代名詞やドイツ語でいう”da”を用いて表現されているところ、日本語ではその因果的・時間的な順序が奇妙なことになりかねないと思っていた。これは文学作品では比較的致命的な問題であり、作者や物語内の語り手の視点の移動や、視点の向こう側にある事物の存在的次元を汲み取ることに関わってくる。

 例えばカフカの『審判』の冒頭の幾つかの箇所を見てみよう。

Es fiel ihm zwar gleich ein, dass er das nicht hätte laut sagen müssen und dass er dadurch gewissermaßen ein Beaufsichtigungsrecht des Fremden anerkannte, aber es schien ihm jetzt nicht wichtig. *2

この箇所は見知らぬ男がある朝やってきた、最初の下りにある一場面だ。そこでKは自分の発言を即座に反芻し、その上でその重要性を打ち消す。試しに訳してみれば、「確かに彼に即座に思い浮かんだのは、そんなことを騒々しくも言う必要はなかっただろう、そしてそうしたことで、自分は不審な男の監督権をある程度承認したのだ、ということだが、しかしそのことは彼にとって今のところ重要ではないように思われた」となる。さて、英訳はどうなっているかといえば、

It immediately occurred to him that he needn't have said this out loud, and that he must to some extent have acknowledged their authority by doing so, but that didn't seem important to him at the time. *3 

authorityが正確にも「決定権」として使われているわけだが、これでは”auf/sicht”のもつニュアンスが若干逃れていくのもやむなしである。その他は特に問題がないように思う。ことが決定的なのは、日本語訳である。ここでは手許にあるものを参照する。

はっきり云ってしまってから、これではかえって男の監督権をこちらから認めるようなものだとすぐ気がついたが、それはたいして問題とするに足りないことだ。*4

 予め断っておけば、この翻訳を難あるものと決めつけ論うことが目的ではないし、たった一つの翻訳でしかないわけだから、あくまで覚書に過ぎない。

 さて、この翻訳では日本語的な通りはいいものの、「余計なことを述べた」という彼のなかの印象が「しまって」とか「ようなものだ」という主観的なイメージで述べられているのだが、印象でありながら原文ではより客観的な叙述になっていることははっきりしている。まして「承認した」は事実的に記述されている。「ようなもの」ではない。そして「重要ではない」に「程度」は勘案されていないものの、翻訳では勘案されているように読める。また、その文はあくまで原文では主観的なのに、逆に客観的になってしまっている。

 何より時間的な継起が曖昧になっているのは一目瞭然である。確かに動詞を「気づく」とすればこのような順序で正しくも見えるが、「思い浮かぶ」という動詞ならばどうだろうか。日本語的にはしかし、それに即した時間は文章で表現することが難しい。

 また、次の文ではより明白に時間的な問題が浮き彫りになっている。 

Durch das offene Fenster erblickte man wieder die alte Frau, die mit wahrhaft greisenhafter Neugierde zu dem jetzt gegenüberliegenden Fenster getreten war, um auch weiterhin alles zu sehn. *5

試しに訳せば、「開かれた窓を通してあの老女が再び見えた。彼女は引き続き一部始終を見るために、まさしく年寄り臭い野次馬根性で、この時通り向かいになっていた窓へ寄ってきたのだ。」この一文では、まず「開かれた窓」に「老女」が「見える」という事実があり、その老女の様子が引き続き動詞一つで書かれ、その目的が明らかになるという、意識の流れが克明に描かれている。

Through the open window he noticed the old woman again, who had come close to the window opposite so that she could continue to see everything. She was showing an inquisitiveness that really made it seem like she was going senile. *6

この英訳では、だいぶ印象が異なる。まず”mit”で性質として付帯されていたものが、先立つ「行為」から読み取られるべきものとして提示されている。これでは原文の時間的継起を移し替えるための正確性は失われてしまうだろう。また、一文目の主語が変わってしまっている。実質的にこの場面の視点は、英訳だとKに置かれてしまうのだが、原文ではそうではないことは明らかである。また、時間的に場面が映ったことを表していた「jetzt」が完全に翻訳では落ちてしまっている。”senile”という訳語の選択はしかし、巧みではある。

 さて、日本語訳ではどうなるかといえば、

 例の老婆が、今度はこの部屋に面した窓際に現われ、最後まで様子を見とどけるつもりなのかいかにも老人くさい好奇心の眼を光らせている、それが見えた。*7 

これではまるっきし時間がひっくり返ってしまうのだが、それはこの訳文が老婆の行為の因果的順序にしたがっているように見えるからだ。そしてこれは大変な問題であると思う。また、「好奇心の眼を光らせる」と訳すことで、動詞が増えてしまうことも問題だ。

 日本語はどうしても動詞が増えやすい言語であると、散文を書いたりしていると感じることがある。それでは意図的な動詞の多様なのかどうかがわかりにくいとか、様々な問題が生じてしまうことになる。これをどう克服することができるのか。文語を再び導入すれば、硬くはなるが多少解決できるだろうが、言文一致では難しい。

 

*1:18頁

*2:Franz Kafka: Der Process. Reclam. S.8.

*3:Project Gutenbergより。http://www.gutenberg.org/cache/epub/7849/pg7849-images.html

*4:本野亨一訳、角川文庫、昭和28年。6頁。

*5:S.8.

*6:Gutenbergより

*7:7頁。

Mémoire du sommeil ≠ ( Name )

固有名を与えるという行為は、クリエイションの終端から新たな歴史性が始まる時点にある。にもかかわらず、固有名が理解されるのは、歴史が完結した後である。作者にあってもそれは同様である。名付けという行為が作者や制度決定者に与える特権性は、名付けという行為によって何らかの存在を浮かびあらせること、そしてそこから何か歴史的に新しいことが始まることを告げることができるという点にこそある。それが固有名をもつということは、それがそのような名前を持つ必然性とは別であり、その意味でクリプキが『名指しと必然性』で言ったアプリオリかつ偶然な条件なのである。

しかし通時的に見れば、その固有名の意味は変容し、予めその名前を持つことが必然であったかのような「アウラ」を帯始めることになる。この時「アウラ」を帯びるのは事実目の前に存在している、唯一無二の物体ではなく、名前の方である。私たちは唯一無二の小石が無数に転がる海辺にあっても、あるいは海原に浮かぶ反射の数々を眺めても、それらを区別することなく踏み締める。しかしそれに固有名があったならば、私たちはそれを無視できない。一つ一つの煌めきに名前を与えることは、この世界にあって無用なことに思われるのは、私たちが決してこの世界の創造者たり得ないからだと無自覚にも感じ入るからかもしれない。少なくとも、小さな虚構や新たな人間関係を作り上げる時には無邪気にも遊ぶことのできる名前は、その指標性の単純明快さとは別に、特段に強烈な輝きを持つことがない。どこまでも神経を鋭くして初めて産出されることが可能となるような名前は、ただ所与の無尽蔵さに直面して初めて与えられることになる。

だからこそ、夢のなかで初めて遭遇した人間たちには、未だ固有名が与えられることもなく、目覚めた後に強烈なおぞましさを帯びたまま記憶に残り続ける。お前は誰なのか、に答えることのない架空の人物。しかしそれが架空であるなどと誰が保証できるのだろうか。自らの意識下に滑り込んでしまった前存在的な人物は、いかなる名前をも拒否することで、私の記憶のなかに紛れ込んだ砂粒となる。

固有名と文学作品について、寝覚めから『固有名の詩学(前田佳一編著、法政大学出版局、2019年)を読みつつ考えている。どれも優れた論考で、一つ一つがうまく関連しあっていると思ったが、私が特に新奇性を感じ、気になった論文は、

山本潤「作者と名前」
宮田眞治「ホフマンとディドロ
前田佳一「ウィーンの(脱)魔術化」

山本先生の論文は、概念使用に違和感のあるところもあったが、実に示唆に富んででいた。特に中世叙事詩のプロローグとエピローグの機能を固有名に着目して簡明にしたのは、とても参考になった。
宮田先生の論文は、専門の時代が重なっているので新奇性は薄れるものの、図式的に整理された多くの知識が少なからず参考になった。
前田先生の論文は、バッハマンの「魔術的地図」の概念を、戦後ウィーン文壇の様子や政情とともに興味深く紹介してくれて参考になった。とりわけドーデーラーについては本邦ではほとんど紹介されていないので、その意味でも貴重だった。

固有名の詩学

固有名の詩学

  • 発売日: 2019/02/20
  • メディア: 単行本
 

うまく眠ることができない日々が続いていて、私の表層に存在していた意識の様々な境界が解けようとしている。名前の混乱はもっとも頻繁に起こる現象であり、次に一般名詞、そして続いて文字に与えられた鍵としての「呼びかけ」が次に崩壊する。その限りで、私は目の前に存在しているものが本来保有していたはずのコンテクストを徐々に失い始めることになる。というのは、名前を通じて惹起されるのは、そのようにして対象化された事物の表象のみならず、夢のなかで遭遇する未知の偶像の数々と同様の、記憶に紛れ込んでいる無数の砂粒の小波もあり、それ故に私のなかに固有名、あるいは名前一般がもたらすものは、私に未だ知られざるところのものばかりなのである。

固有名はパラテクストの一種なのかどうかは、対象の自己関係性や、私との関係のもとに成立しているのかなどの分類に従って検討される必要があるだろう。名前がどれほど空疎で、どれほど偶然的なものであれ、名前がもつ音韻の先験的な効果は、押し寄せてくる波のそのものであり、私が名付けられた瞬間からその海嘯が立てる轟音は、少しずつ衰微しようとも、耳鳴りとなって響き続けている。それを交換したり捨てたりということは、単なる「社会的身体」に結晶しているものだけではない。それは私が聴き続けてきた音響世界を一変させてしまう。それが人格性に反響する時、私が私として誰かの目の前に立つことができる。

Demonstrativaの問題がここにある。私はここでいつも立ち止まる。

最後に江口先生の論文「『ジーベンケース』における名前の交換」から、ジャン・パウルの『ジーベンケース』の引用を孫引きしよう。

ハインリヒは考えた。彼が数日の後に、捨てられた名前とともに、小さな小川のように世界の海へと落ちていき、そこで岸もなく流れて、見知らぬ波へと砕けていくのだと。彼自身が、彼の古い名および新しい名とともに墓穴の中へと落ちていくように、彼には思われた。(48頁)