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Germanistik, Philosophie(Aufklärung, Phänomenologie, Logik), Biologie, Musik und Kunst

trend May. 2022 #2

Absent In Body

梅雨が近づいてきた。ついこの間立夏ではなかったのかと思うのだが、最近時間感覚が狂っている。1日は早くすぎるのに1時間がなかなか過ぎて行かないと感じているのだとすれば、それは憂鬱で体が思うように動かず、取り組むべきことになかなか身が入らないからだ。わかっている。

そうなってくると次第に重い音楽を聴こうという気分になる。重くて深刻で、暗くて沈んでいくような、引きずるような音楽。ヒップホップや電子音楽をこの2年ほどは特に聞き込んでいて、HMやDSBMなどは例えばBorisSunn O)))のようなバンド以外あまり聞かなくなっていた。

とはいえ学位請求論文を書き上げ、諸々の資金集めの書類にも家事と共に立ち向かう必要があったために振り絞った最大出力での低空飛行にも疲れ果ててしまった。今は確かに回復してきている。だが回復してくるのは常に低いところからだ。まずは生理機能、そして知覚、感覚的享楽、認識、構想、そしてようやく人と関わるための諸々の気力が湧いてくる。最後に到達してもまだ不安定なので、すぐに人との関わりから遠ざかりたくなる。基本的に今は自分が自分として人と会うのは避けるべきことでもある。確かに勉強会などは参加「したい=すべき」と自覚しているし、仕事だから講義に出かければそれはそれで安心するから少しは元気になる。ただそれは仕事を一つこなしたという安心であって、極めて切り詰めたものでもある。講義をするのは好きな方だ。対面なら尚更。だからそれは悪いことではない。リハビリというのは常に少しきついくらいのことをこなした喜びを覚えることで次のステップへ進むための基盤ができる。

こういう音楽を聴くことは、一種のセラピーであることは分かりきったことだ。暗い気分の時には明るい音楽を聴く、というようなバランスの取り方でうまくいほど単純なメンタルというのは存在しないわけで、精神的に不調である原因が「壁のなさ」に疲弊してしまっている結果であるならば、音で厚みのある「壁」を作ることはとても大事であり、ともすればその壁は向こう側にできる限り陰惨さや汚辱に塗れたこの世界の現実を用意しておくことが望まれる。なぜかといえば、そのような表現にこそ体が受け付けることのできないままでいる諸々の悪や不快をひとまとめにして、代理表現を見出すから。それは一歩引いてみれば笑ってしまうようなことだ。そういうことを考えている人の顔を見ては、仏頂面と言って人々は揶揄してきた。そして実際バカバカしいことかもしれない。かつてボルヘスも誰かの言葉を引いて、どのような不幸もその人にとってみれば世界で最も大きな不幸に感じられるものだと言ったはずだが、そうであるなら、どのような不幸も取るに足らないことになるだろう(だからこそ幸福とか不幸は計量できるのかどうかという問題は本当に近代的な問題としてじっくり考えて見てほしい。果たして幸福や不幸を両極にした原点からの距離によって示すことができるとしても、最大の幸福や不幸というのは意味がある言葉だろうか。所詮それば無限遠点のように方向を示しているのではないだろうか。そしてその空間はとても歪んでいて、だからこそ人々はこのカオティックな空間で、同じ方向(幸福)を求めているふりをして全く方向喪失しているのではないだろうか)。

このような音楽は実にプライベートなもので、そこではなんでも許される。人の死も誕生も、信仰も懐疑も、苦悩もセックスも笑ってはならないという、ある意味では見て見ぬ振りが望まれる時代にあって(だって結局そういうものを笑ってしまうんだろう、限りなく陳腐なままの人間というのは)、本当の意味で遮断された部屋を求める限り、心の底の底に進んでいかざるを得ない。そうして、残酷なことだが、そこで「自己」を切り刻んで、焼いてしまって、全く風のない虚しい空間をそこに生み出すことでもある。これがどういうことなのかをあまりうまく説明はできないのだが、差し当たっては。

 

最近出たばかりのAbsent in Bodyの新しいアルバムPlague Godは出色の出来であることは間違いがない。十分優れた壁を作ってくれる。Absent in Bodyの情報をいろいろ書くかどうかは迷ったがどうでもいいのでやめる。

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雑記 May. 2022 #1

何の関連性もない雑記

  • 毎日何かしら文献を読みまとめ、さらに何かしら文章を書き、構成を考えるということを繰り返している。このなかで最も頭を使うのは当然文献を読むことであるのだが、しかし文章を書くというのは最も困難なことでもある。これは身体との相談でもある。さらに構成を考えるとなると、書き続ける中からしか出てくることはない。身体がうまく応え、粘り強く動いてくれない限り構成はうまくいくことがない。もちろん範型に沿ったライティングの技術というものはある。しかし書き始めるにあたって、あらかじめ書くべきことを全て調整することはできない。そういった調整はたいていが網羅的になりすぎる。他人が文章を読むときの直線的な思考の動きに自分も合わせなければならない。そうなると実際に書き始め、書かれたものに従いながら次に進んでいく。そうやって視野を狭めることで、誰でも一筆書きの思考を辿ることができる。ほとんど大腸菌の運動と変わることがない。だから構成は時に無思考の産物であることがある。それどころかたいていが無思考の産物である。だが仮に対象の間に何らか事実的な関連性があると信じることができるならば、無思考の構成が反射的に整然とし、まるで結晶化することになる。そうやって文章が出来上がるまで、探査しなければならない。うまくいかなければランダムに向きを変えてもいい、うまくいったらラチェットをはめてやればいい。
  • 今日は恐るべき一日であった。プロ野球に関してである。とはいえ、スポーツ観戦というのは明日には忘れ、数年後、あるいは数十年後に思い出すものだ。
  • 18世紀から19世紀にかけて学問は分野間での闘争が少なからずあった。とはいえそうやって分野が確立したのだと思うと、常に中間領域に置かれていたような事柄は、思弁に収束してしまう。骨相学のような学問は今や見込みのない擬似科学のように思われているが、しかし骨相学は単純に頭蓋骨を観察しているわけではなく、脳の部分部分がどのような機能と対応しているのか、そしてそのような「人間的」な行為がどのような神経基盤を持っているかを、測定可能な数字から推し量ることを試みていた。そのような発想は、脳が魂の座であると理解されるようになって(18世紀半ばまでに十分理解されていた)自然に思える。だが計測によって何をしようとしていたのか。骨相学は形態的特徴が能力と比例関係にあるかを理解しようとしていたのである。これは今でも心の哲学神経科学の中に一定程度存在している見解であるか、あるいは一つの立場を占めているといっていい。ところが骨相学が結局思弁で終わったように、何らかの比例や神経相関を見出すことは困難な思弁かもしれない。いや、そうではないと主張することはできるし、実際そのような実験的探究が成功裡に終わることを願ってもいる。第一、当時とは生物の理解も技術的状況も全然違うのだから。だとすれば、ある意味では思弁が思弁ではなくなるということを期待していいということだろうか? 否である。ここで注意しなければならないのは、思弁が経験と対置される時、思弁とは理論と似ているし、しかし異なるという点である。つまり理論は経験的に充実されるべき均一的対象を作り出してしまう。しかし思弁はそのような要請をしない。それどころか差異化を促進し、多様な経験を時に支離滅裂なほど一層多様化させることもあるだろう。だが、それこそが現実を作り出すことがある。そのような過程として、リンネ以前、そして以後の分類体系の構築過程を見ていく必要はあるだろう。
  • 今日は暗渠について考えもした。また、昼間はノイズ音楽をずっと聴いていた。子供たちの嬌声や動物たちの鳴き声が入り混じっていた。暗渠ではどのような声が聞こえるだろうか。そこには光は当たらない。ともすれば外気に触れることもない。埋設だけとは限らない。
  • 研究文献とは別に、国木田独歩や山田美妙を青空文庫で少し読みもした。

trend May. 2022 #1

Prurient

ドミニック・ファーノウ(Dominick Fernow, 1981-)はPrurient名義の他Vatican Shadowなどの名義で膨大なしかし高品質で新しく、重厚な作品を制作し続ける多作の天才と言える。自身のレーベルHospital Productionsもまた彼の元に集まった数々の才能あるアーティストを世に送り出している。ノイズやインダストリアル、ダークテクノ、ハードコアを聴いている人ならば彼の名前を聞いたことのないはずがない。今更誰が紹介しようとするだろう。

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彼の作品はどれひとつとっても素晴らしいのだが私が特に気に入っているのは2016年に制作されたUnknown Rainsと2015年に制作されたFrozen Niagara Fallsだ。

とはいえこれらの作品についてここでくだくだ語るつもりはないのだが、代わりに思い返せばPrurientなどのノイズ音楽を聴き込むようになったのは、確かに2013年あたりからだったはずで、その後少しずつ情報を仕入れながらBandcampなどで思い立ったように聞くことが増えたのだが、その頃多くを教えてくれたのが阿木譲のブログだった。

例えばこのUnknown Rainsについては以下の記事がある。 

Prurient – Unknown Rains | 阿木 譲 a perfect day

阿木譲が昔何をしていた人なのかなどは後から知ることになる。確かに日本人の音楽愛好家で彼の名前を知らない人も、ある年代まではそういないだろう。とはいえ彼が激烈な暴力を愛の名の下で他者にぶつけ、そうして一旦表通りから姿を消してもなお、こうして優れた「消費者」として記事やステージでの活動を続けていたわけだ。

2018年に訃報を耳にした時、a perfect dayというタイトルが浮かんだ。