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Germanistik, Philosophie(Aufklärung, Phänomenologie, Logik), Biologie, Musik und Kunst

Mémoire du sommeil 1

29. February 2020 

今朝、何も感じることなく目覚めが訪れた。夜半の内に一度、罵り声をあげて目を覚ました気がする。どんな夢を見ていたかは覚えていない。とはいえ、思い出されるのは恋人との、入浴という単なる疑似的な性的関係であれども、それと結婚の取り決めの切り離しがたい関係についての夢だったように思える。

布団を片付け、本を数冊手にして階下へ降りた。アッサムが知らぬうちに切れていたので、買い置きしてあったルフナのパックを新しく開き、牛乳を温めてお湯と共に注いだ。それから父や母も目を覚まし、いくらか会話を交わした。

両親との会話のなかで、――これはよくある話題だが――政治家たちへの厳しい意見が飛び交った。そしてやがて話題は転換し、この香りの良い紅茶はどこで買ったのか、といった話になった。セイロンティーはどれも優れている。なかでもルフナは味が濃いのでミルクティーに合うのだ、等々。

やがて父は出勤した。そして母と依然よもやま話が続く。私は仕事に取り掛かりつつも、話に耳を傾ける。時々相槌を打ち、また、一言二言述べることもある。新型コロナウィルスの感染流行で全国の学校が突然休校勧告を受けることになったのは一昨日か昨日か。朝令暮改の政府のせいで、時間感覚が狂い始めている。

気づけば私の中高時代の卒業式の話になった。私立の中高一貫校に通っていた私は、中学の卒業式は終業式と変わらず行われた。父兄はいたかいなかったか。そして高校は、私は不登校だったので校長室で一人で受けた。数人のお世話になった先生と両親がいて、その後さらに数人の先生と大学入学後にどんなに楽しい学問が待っているかを話しした。期待していた。それがどれほどかなったかは知らない。とはいえ、私は今、学問に打ち込める限りで満足している。

それから、中高時代に私がひとりで、もしくは仲間と共に講演会を企画し招待したTs氏という映画監督と、Ky氏という小説家とKi氏という小説家についての話になった。当然さらにSh氏という教員についても。少なくとも初めの二人は当時非常に人気だったし、強烈なファンももっていて、今でも引き続き注目される作品を世に送り出し、立場も確立している(ように見える。物を作る人々には、外からは思い寄らない苦労をしているし、作品制作とは別の様々な交渉上の苦労があるはずなのだ)。その四人に感謝をしなければならないし、いつか何かの巡り合わせで再会することがあるだろう、と言われた。私もそう思った。縁は簡単に切れるものではない。出遭いと同様、再会も驚きを伴う。

私にこの四人はみな、大学へ行くことを強く勧めてくれた。私は当時悩んでいた。小学校時代と同じ様に不登校になり、世の中のなにもかもが気に食わなかったから、大学に行くことも考えづらかった。確かに私は勉強は続けていた、多分人並み以上に。とはいえ読書が好きだったし、何事も考えたり工夫したりするのが好きだったので、自宅でインターネットを大いに活用し、他事に取り組んでいた。音楽も気が向けば練習していた。絵画はそれなりに得意だったのでスケッチブックに鉛筆画を描いて手を黒くした。専門的な訓練を受けて、美大か専門学校に行くのもいいと思ったし、あるいは司法書士にでもなろうかとも思った。民法の教科書を読んで、これなら資格を取るのはそれほど難しくないだろうと確信した。

働けば金が手に入り、好きなものを手に入れ、好きなことをする時間が手に入る。そう期待してもいた。あまり強制されたくなかったのだから、そのための手段を探していた。

言葉はその最も強力な道具であった。言葉には最も強く惹かれた。小説を書いてみたり、エッセイを書いてみたりした。それはそれで楽しく、高校生なりにそれなりの作品を書くこともできていたかもしれない。とはいえ、もちろんだが今の方がはるかによく書ける。高校時代は創造というより、単に藻掻き、勉強し、世に触れつつ訓練した時代だった。世間の多くはアスファルトのように歪で、悪臭放つ塊をなしていた。

確かに、私は言葉をその訓練を通じて、より多く操れるようになり、自分の目指すべき文章に必要な体力を手に入れただろう。気づけば愛していたし、愛されていると思う時も増えた。文体はそのあと確立すればよかった。それは結婚生活みたいなもので、ケセラセラなのである。なるようになって、形は自ずと呼吸の間合いに従ってできる。

そうして結局、大学に入ることになる。その間の決断は、それほど深刻さもなく、四人の薦めはとても説得力があったから、私自身が何をしたいのかを、私以外の人は知っていたのかもしれない。たとえ初対面でも。そして私はそれを見透かされたので、動じることもなく大学入学試験へ向け、本腰いれて勉強を再開した。

とはいえ続けていくと、次々葛藤が沸き上がった。解消しきれない失望感を味わい続けた。成績は上がったり上がらなかったり。そういうことはどうでもよかった。勉強すべき場所への意識が過敏になっていた。家のなかでは静かに勉強できた。しかし長期休暇に参加した集中講座で予備校へ赴くと、そこはインスタントラーメンとインスタントコーヒーの鼻を刺す臭いで満ちていて、愚かしい笑い声と、淫らな発音が渦巻いていた。ペテン師かコメディアンのような予備校講師は全員憎悪の対象でしかなかった。知識を学ぶことを青春の一幕に矮小化し、産業化しているような連中は私の敵だった。

煙草を吸いたいと思ったのはこのころだった。結局吸うことはなかった。コンビニや自販機で買うための金も勇気もなかった。厄介事に巻き込まれることは、引きこもりの人間にとって忌むべきことだ。根城を失いかねないからだ。

ところで、そうこうしているうちに、Ky氏と二時間ほど、二人で会食する機会をもらえた。Sh氏の取り計らいで、ほとんど黙って同席していた。私はそこで好きな小説の話をしたり、好かないメディアミックスについて意見を聴けて、楽しかった。だが、なにより大学へ通うべき理由を、なにか確信めいたものを、与えてくれた。

その頃既に、Sh氏が紹介してくれた人文系の某学会でも馴染むようになり、実際に学問に携わっている人々との会話が励ましになった。その分野の関係で、漢文学は特に興味深く、また、漢文を読むのは得意だった。中国文学に進むのも考えた。とはいえ結局人生の葛藤のなかで大きな慰めとなった『ファウスト』が私に道を示した。

こうした人々との出会い、彼らの言葉、そしてそこから私が仮令わずかでも何かを汲み取れたことは、とても有益で好運なことだった。読書は多くを与えてくれる。解決がそこにある時もある。だが確かに、あるドイツ人に言われた通り、解決は人々のなかにあることもある。少なくとも、私は言うことができる、それは言葉のなかにある、と。だがそれは単に空中を浮かんでいる雲や酸素ではない。それは蝶のように探し出し、出遭い、追いかけ、時に忍び、捕らえなければならない。

私は好運を強く掴み、離すまいと意志していた。それとなく、何も考えることなく、感覚的に。

私は様々な人々に負っているとわかっている。それは形としての財産ではない。形としての財産は自分で獲得する必要があったし、知識も自分で学ぶ必要もある。自分ですべきこと以上のものが機会であり運なので、その限りで、私はそれをGoodと呼ぶべきなのだ。

Ihnen bin ich glücklicherweise DAFÜR verbunden.

それが何かを、明確に言うことなどできやしないが。