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Germanistik, Philosophie(Aufklärung, Phänomenologie, Logik), Biologie, Musik und Kunst

cinema kantiana 1 Ladri di Biciclette et al.

自転車泥棒」Ladri di Biciclette

制作: 1948年

監督: Vittorio De Sica

キャスト: Lanberto Maggiorani, Enzo Staiola et al. 

ネオレアリスモの名作と称されるこの作品は、モノトーンの映像にローマの強い日差しがどのような映像を与えることになるかを、その物語の隅々から伝えてくれる。戦後、仕事を探しあぐねてモンテ・サクロから子連れでローマへやってきた男が、自転車を必要とするポスター貼りに採用されたものの、作業中に自転車を盗まれてしまい、子供とともに延々と犯人を、そして自転車を探す筋書きは、いたって単純であり、現実志向の作品には往々にしてある偶然に満ちた、しかしディテールを詰めることで説得力を持たせる手法で、つまり、現実を反映すると言いながら、現実を迷宮したてあげる手法で、聊か突飛で、些末で、どこへ行くかわからない、宙に舞う乾いた砂のような登場人物たちの悲哀を描く。

このような映画を見るには、忍耐と注意力が必要なのであり、それを不可能にしかねない見通しの利かなさがここにあある。しかしそれは日差しが強ければ、フィルムに焼き付けられる翳は過度に黒くなる、といった撮影上の問題と似たようなことでもある。この物語は多少散漫に鑑賞しなければ、逆にその生き生きとした側面、躍動――いや、ばてるほど披露するような疾駆と神経的昂揚を見落としてしまうわけだ。そのせいで、反って限りなく退屈な作品と思い込みかねない。

群衆のシーン、広場のシーン、路面電車が現れたりスタジアム前にずらっと自転車が並んでいたり、戦後復興がにわかに印象付けられる。同じネオレアリスモの作品を作っていたヴィスコンティが、およそ20年後にボッカチオを基にフェリーニらとオムニバス映画「ボッカチオ '70」を制作したときのことを思うと、その20年がどれほどの変化だったのかを思い知る。

戦後の奇跡的な経済復興は、敗戦国どこにも現れたといえる。なぜならアメリカが資本主義のエッセンスを注入し続けたからだ。貧しさの中で政情不安定な状況では、共産革命が起きかねない、というわけだが、しかしこの映画が下層を映しているとすれば、そこにあるのは只管の物質欲求という資本主義のエンジンではなく、むしろ機会そのものであるとわかる。これをロールズとセンの議論に重ね合わせていくことができるだろうか。娼館やそれを囲む一つの通りの共同体。癲癇に倒れる男。ドイツ人の集団。大雨。老人。ミサ。その十年後には、全く違う都市の様相、若者たちの生活が描かれることになる。宗教的な臭いは、どんどん消えていくことになる。

それに比して、随所随所に挿入されるシューベルトアヴェ・マリア。そして初めてと思えぬブルーノ役のStaiolaの演技が、切なさを掻き立て続ける。ここ少年は、ラストシーン、父親がいよいよ自転車泥棒を決意する際に、ローマからイタリア北端の町まで一人で電車で帰るように運賃を渡される。父親も息子も覚悟の瞬間なのである。あのシーンの緊張感は、これを理解しなければ決して正確に感じることはできないのだ。

 

 「野ばら」Der schönste Tag meines Lebens

制作: 1957年

監督: Max Neufeld

キャスト: Michael Ande, Joseph Egger, et al.

 日本でも明治以降教養市民層で親しまれたゲーテ青春の詩である「野薔薇 Heidenröslein」の邦題を冠したこの作品は、原題は「人生で最高の日」というわけで、主人公のToni (Michael Ande)が、世話になった養父であるBlümel (Joseph Egger)の前で唱歌を披露できると教師に言われた時に飛び出した台詞である。

ハンガリーからチロルへ移民した孤児である主人公Toniは、偶然出会った黒い子犬とともに、一人で年金暮らしを送る船乗りBlümelに引き取られることになる。善良な老いた養父のもとで、すくすく育ち、歌声の美しい彼はある日ウィーン少年合唱団へ入団することになる。入団試験の際に歌うことになったのが、Heinrich Wernerが作曲したほうの「野薔薇」である。

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感想は色々ある。例えばシラーのバラードを思わせる箇所が二か所あったり、同じ子役Andeが出演している「菩提樹」に代表されるHeimatfilmというジャンルに関してだったり、戦後オーストリアが陥っていた一種の病が見え隠れする点であったり。いずれにしても、この紋切り型に終始してしまってもいる「古き良き」美談は、しかし何ら退屈を感じさせるわけではないのだが、それでも現代の鑑賞に必ずしも耐えない。なお私がこの純朴な作品を見て胸を動かされたのは、監督のNeufeldがユダヤの血族にあり、そのためにナチス占領下のウィーンを追われたこと、そしてその彼がこの牧歌をストレートに制作したという事実である。

なるほど、数年前に制作された「グランド・ブダペスト・ホテル」は、Stefan Zweigの『昨日の世界』を原作としたと言われており(実際はどうだろうか、『昨日の世界』は言うまでもないが回想録なのだ)、ドラマに仕立てる上で全く手腕の違いを感じてしまうならば、それは映画をあまりに感性的に見ているのである。注意が必要なのは、間違いなく老境に至ることのできた幸いなNeufeldは、Zweigの直面していた状況とは全く違う視点からこのような映画を構想したということだ。

それがもし、古典的な――例えばArnold Fankに代表される――プロパガンダ映画にも携わったことのあるNeufeldが、その時の真情を再び蘇らせることで戦後世界の荒廃から逃れた世界に「慰め」を求めようとしただけならば、それは想像力自体の荒廃かもしれない。とはいえ、私たちは既に知っているのだが、例えば七年戦争、そしてナポレオン戦争の後には、常にドイツにこのような流行があったという事実であり、それが何を意味するのかは、それ自体考察に十分値するのである。

ところで、古い映画のためか字幕の翻訳が少々怪しい。とはいえ、慣習的な都合もあるだろうし、無視できるレベルである。

 

罪と罰 白夜のラスコーリニコフ」Rikos ja rangaistus

制作: 1983年

監督: Aki Kaurismäki

キャスト: Markku Toikka et al.

フィンランド出身のアキ・カウリスマキの監督による、フォードル・ドストエフスキー罪と罰』の映画化。筋書きはいくらも変わっていて、原作といっても、殺人後目撃者、そして第三の人間との間で展開する筋書の中で、実存的な苦悩や救済を描いている限りで、インスピレーションを与えたという程度である。初の長編監督ということもあってか、演出があまり上手いとはいえない。役者の演技もそうだし、音楽の挿入はテレビドラマ風で必ずしも噛み合っていない。正直なところ冒頭、屠殺場の光景にロックンロール調のラブソングを重ねているシーンが続いた時には、多少不安にさせられた。

とはいえ随所に観るべきものもある。映像の構成は多分に暗示的で、美的に色彩を重ねる。それに原作でも重要な警察署へ参考人として出向くシーン以降は、意外なほどに良い出来である。カメラの技術も急に安定し始めるように思える。カメラワークは主人公の動揺や奇妙な落ち着きとも関係があるのかもしれないが、古典的な画面構成全般が、一種の安定したフェードやパンを必要としている。

特に主人公が陥れた浮浪者の青年が、刑事の一計で真犯人として逮捕されたという報道後、自らの犯した罪に現実感を失って犯行現場のアパートへ向かってからが良い。ここから原作に筋書きが平行して進んでいく。偶然も重なる中で全ての証拠が消え、まして別の人間が凶器の銃を手に入れた挙げ句事故死し、主人公はその先偽造パスポートで逃げることも逃げないこともできる中、刑事に警察署でへ再び呼ばれ、自白を迫られる。ここからラストシーンまでは出色の出来で、主人公役の演技も、開き直りと、仮定を問い続ける台詞の中に怯えが混ざり合った様子を落ち着いて演じることができていた。

主人公が金のない学生ではなく、普段から屠畜屋で斧を振るう冴えない中年男だというわけで、ともすれば「タクシードライバー」を彷彿とさせるわけだが、もっと軽率な感じがしてしまうわけで、それは動機が明確である点、そして凶器が銃である点が原因であるだろうが、それは決して欠点ではない。事件はどん底の孤独のなかではなく、因習的なものに絡められた別の事件から生じることもある。

つまり、これは実に日常的な事件なのだが、それでも私たちが向かうこともありうる不条理を、軽薄な印象を通じて浮き彫りにすることで、そこに夜闇の港のように冷酷さが輝くのだ。

ニューウェイブの音楽とともに、夜遊びに興じて何かを忘れようとしている主人公は、単に失恋しただけのようで、このような演出はともすれば、「アメリカの友人」のヴェンダースすら思わせるわけで、その意味でこの映画は80年代らしい。そして最後には自白、刑事の怒りの鉄槌。ここで息を深く吐く主人公は、この痛みで安心しきる。全ておしまい。捕まれば、そう。

また、本来の受身なソーニャの役には、まったく別の女性像が構成され、彼女に付き纏っていた男の、都合良い、偶然的と言える呆気にとられるような死の出来は、この物語全般の性質を、原作と決定的に変化させているわけだが、これがまたこの作品の美点でもあるだろう。

 

同DVDに収録されていた「マッチ工場の少女」Tulitikkutehtaan tyttö は時間がなく見逃してしまった。また縁があったら観てみようと思う。