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Germanistik, Philosophie(Aufklärung, Phänomenologie, Logik), Biologie, Musik und Kunst

Mémoire du sommeil 4

12-17. March 2020

 

 

判決から一晩が明けた。とても語りつくせないほどの衝撃と悲しみを覚えた。彼の述べていることには、随分危機馴染みがあった。彼は計画的であり、一貫していたかもしれないが、死ぬほど考え抜いたわけではない。彼が凶行に及ばなければならなかった必然性はどこにもないように見える。

https://www.buzzfeed.com/jp/reonahisamatsu/sagamihara-verdict

このサイトに判決文全文が掲載されている。まだ読むことはできていない。

この事件は、あまりに語るに難しいことがつきまとっているが、これまでもたくさんの取り組みが蓄積されてきたからだ。それらを無視し、犯行が生じなかったであろう世界を実現できるとは思わず、軽率にも「犯人を理解」したいと考えることは、被害者は彼が現れるまで存在しなかった、とでもいうような身振りである。逆なのだ。障碍者として認定され、そのために手助けを必要とされながら、個体としての身分を脅かされつつ共に生きることを勇敢に決意した人たちは、今も昔も、これからも存在する。だが、彼のような犯罪者は、本当のところめったに存在したこともなく、むしろ社会のなかで群れて潜んできた。そしてそれは実に演技指導された独裁者の物まね(つまりポピュリスト)に、そう模倣の模倣を模倣している。

だからこれは正しい意味で狂っている。狂った現象なのだ。まるで鉱物のなかのインクルージョンみたいな人間はたくさんいる。それはインクルージョンである自分を否定するためだけに、エクスクルージョンされているものを、攻撃する。そうして自分の身分証明とする。個人的な思考の、表面的な一貫性とは別の論理が、こういう時には強力に作用してしまう。

 

 

人民主権への不信に基づいて築かれた政治秩序――明示的に反全体主義的で、暗示的に反ポピュリスト的と言ってもよい秩序――は、人民の参加を最小限に抑えるために設計されたように見えるシステムに反対し、人民全体の名のもとに語る政治アクターに対して、とりわけ脆弱だ[……]。(中略)

奇妙なかたちで、テクノクラシーポピュリズムは合わせ鏡の関係にある。テクノクラシーは、正しい政治的解決法はただひとつだと考える。他方でポピュリズムは、唯一の真正な人民の意志が存在すると主張する。最近では、両者は特性まで交換している。つまり、テクノクラシーが道徳化する一方(「ギリシャ人よ、汝の罪――すなわち過去の放蕩――を償わねばならない!」)、ポピュリズムはビジネスライクになった(たとえば、ベルルスコーニチェコ共和国のバビシュ[ビジネスマン出身の財務相])は、国家を自らの会社のひとつのように運営すると約束している)。テクノクラートにとってもポピュリストにとっても、民主主義的な議論は必要ない。ある意味で、両者は奇妙なほどに非政治的(apolitical)だ。それゆえ、一方が他方の道を拓いていると想定するのは妥当である。なぜなら、意見の相違はありえないという信念をそれぞれに正統化しているからだ。結局のところ、両者はそれぞれ、唯一の正しい政策的解決法が存在し、唯一の真正な人民意志が存在すると考えているのである。

 

ヤン=ヴェルナー・ミュラーポピュリズムとは何か』板橋拓己訳、岩波書店、2017年、118-9頁。

 

 

およそ3ヶ月前、年明けの前にカントに関する論文を準備していた。

するとこれである。「超越論的感染論」。突然の誤変換であるものの、全く予測もできない字の並びであるかといえばそうでもない。ただ、私は驚かざるを得なかった。この言葉は、まるで形ある物たちの本質を言い当てているように思うからだ。あるいは、より正確に言えば、形成す物たちの本質、ちょうどそれはFrancis Glissonの生理学的解釈に成り立つ擬-スピノザ主義で言われるところの、生命そのものの本質を言い当てているように思ったからだ。

これは単なる入力ミスではないかもしれないと思い、私は「超越論的感染論」という語を記し残しておいた。本来は「超越論的感性論」と打つべきところ、「超越論的観念論」と音が混ざったようだった。ドイツ語本来の音では混ざりようがないわけで、翻訳語のなかに潜む独自の音韻的傾向が、造語能力に及ぼす影響はずいぶん意識深くにまで及ぶのかもしれない。それからというものの、私にはこの語が頭から離れることなく、感染のイメージがあちこちに及んでいくのに気づいた。

恥ずかしながら打ち明ければ、趣味のスポーツ観戦すら、避けるべき衛生対象になってしまった。-an-en の並びは少しばかり忌々しさをぬぐえない。あるいは肝炎。あるいは還元。それとも眼瞼。そうやっているうちに、いつの間にか新型のコロナウィルスが世界中に流行し始めてしまった。今やパンデミックである。

感染は、一度すれば取り返しがつかない。癒えたのちもその記憶は体に残存し続ける。

ミームという自己複製能力をもつかのような生命的データの恐ろしさは、まさにそこにある。それは忘却後も残る。まるで蚕食された意識の片隅に、卵が産みつけられるように、そこから新たな、異物の思考が次々と湧き出てくる。そしてそれは拡大する。

あたかもそこに現実として存在するかのように、私たちに幕を、それも快楽の映し鏡となる銀幕を垂らしてしまうイメージは、殆どウィルスと変わりない。ウィルスは自己複製能力を、生物物理的な機能としてのみもつのであって、組織的にもつわけではない。超越論汚染のカテゴリーとは何か。このカテゴリーは、超越論的悟性のカテゴリーの誤使用の天邪鬼である。つまり、私たちに幻だけを見せるのだが、それ以外の現実を全て妄想として片付けてしまうものである。それは意識をぐずぐずの膿に変えてしまう。

 

 

シナプス結合の瞬間を見たことあるだろうか。私はなかった。普通はないものだ。それは決して見えない場所でしか生じてこなかった。だがここに一つの動画がある。ジョン・カーペンターの名作『遊星からの物体X』で描かれたモンスターたちのような造形を、ここに見ることができる。

 

www.youtube.com

 

 

制度(institutions)とは, 社会における「ゲームのルール」である. それは, 社会が人間どうしの相互作用のために設けるルールであり, われわれの行動にパターンを与えることによって, 人間どうしの相互作用に伴う不確実性を減らす. 一そろいの制度があるために, われわれの日常的な相互作用の多くは定型的なものとなる.

ティモシー・J・イェーガー『新制度派経済学入門:制度移行経済・経済開発』青山繁訳、東洋経済新報社、2001年。11-12頁。

組織(organization)は、ある目的を達成するために結束した個人のグループのことである. 組織の例としては, 法人, 零細事業者, 議会, 最高裁, 家族, 政党, スポーツのチームなどがある. [……]大事な点は、組織と制度と区別することである.[……]組織は自分自身の制度をつくることもできる.

同上、13頁。

 

Moralität besteht also in der Beziehung aller Handlung auf die Gesetzgebung, dadurch allein ein Reich der Zwecke möglich ist. Diese Gesetzgebung muß aber in jedem vernünftigen Wesen selbst angetroffen werden, und aus seinem Willen entspringen können, dessen Prinzip also ist: keine Handlung nach einer andern Maxime zu tun, als so, daß es auch mit ihr bestehen könne, daß sie ein allgemeines Gesetz sei, und also nur so, daß der Wille durch seine Maxime sich selbst zugleich als allgemein gesetzgebend betrachten könne. (BA 75-76)

Immanuel Kant: Grundlegung zur Metaphysik der Sitten. 

 

マスク、アルコール、諸々の感染症対策のための衛生用品が各地で品薄となっている。

 

 

取り返しのつく可能性、交渉可能性こそが、私たちにとって重要な遊びの原理である。それを経て、人々は初めてパレート最適と言えるようなルールの設定を覚え始めるのである。遊びは学習や探索の後に初めて可能になる。遊びだけが私たちを不安や恐怖から解放し、接近を可能にし、笑い合うことを許し、次に不可逆的な変化に対する事前の証人を可能にするのである。

ヴィトゲンシュタインが「言語ゲーム」を考案する前に小学校教師をしていたという挿話は実に印象的である。しかしもう一つ、庭師をしていた経験は、一見すると彼の哲学と関わりがないように見えるかもしれない。だが、実際のところ、建築術の一種である庭師業は、彼の『論考』と「確実性について」や『探究』を結びつける経験を与えたに違いない。彼が「確実性について」で比喩として種子の発育について語る時、そこにはすでにゲーテの形態学に関して、植物の手入れから獲得した経験的理解が入り込んでいおり、『探究』でゲーテの色彩論を語る姿は、その発育した姿に外ならない。だが、もしそうならば、彼がそのように語るようになるとは限らなかったであろう。

つまり、彼の哲学が一見断絶しているように見えるのは、まさに「確実性について」を彼自身が体現しているからなのだ。

 

 

(中略)