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Germanistik, Philosophie(Aufklärung, Phänomenologie, Logik), Biologie, Musik und Kunst

spiritus et existentia 1

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土を捏ねて形作ることは、実際に手を動かしたことのある人ならわかることだが、単に粘土の状態を整えることで鋳型による適切な成型を可能にする工程とは全く異なり、遥かに複雑であり、遥かに土の性質に詳しくなければならない。

この世界で初めて土の性質を知悉することで、捏ね、力を巧みに加えることで形をなしたのは、神そのものに他ならない。『イザヤ書』64:8には次のようにある。

et nunc Domine pater noster es tu nos vero lutum et fictor noster et opera manuum tuarum omnes nos

神は人間を単に成型して乾燥させたのではなく、自からの構想(imago)に沿って塑型した。松山康國氏が「土塊考」で指摘している通り、この時使用された土塊(limo terrae)とは粘々していなければならないが、それははじめ単なる土の塵でしかなかった。なるほど、創世記の冒頭には、

terra autem erat inanis et vacua et tenebrae super faciem abyssi et spiritus Dei ferebatur super aquas

とある。すなわち、大地は荒れ果て虚しく、底深くで闇に呑まれていたが、神の精神は水の上を漂っていた、というわけだ。この対比は乾ききった不毛な大地と恵みそのものである潤いであり、神の息吹spiritusが吹き込まれることで、大地は形成すことのできるものとなる。

 しかし一つ問題なのは、神が人間に関してはイメージないし似姿に従って創造する(creavit ad imaginem)という知られた一節である。奇妙に思わないだろうか。 他の生き物は何から成したかは不明で在り、その種に従って創造したのであって、その限りで人間は種ではないということなのだろうか。むしろそれは生き物ですらないのか。確かに他の生命ある被造物が、自ら繁殖する能力を備えているとすれば、神に似ている限りで人間にはじめそれがなかったはずである。

 単に人間は神との直接的紐帯を、そのspiritusにおいて持ちながら、大地とも同質なのであって、神の息吹を孕むよう整う様に捏ねられた土塊として、土壌として「代謝する」素材のままである。つまり、人間は「物質代謝(Stoffwechsel)」の場所として、何事かを養い育みことで、他の生命的存在の繁殖に寄与する。それでは生命的な自律的運動は、人間にあるのだろうか、あるいは自由意志の根源としての精神は、果たして個別的であり得るのか。松山氏は次のように述べる。

さて、かの土塊は、自らの中に吹き入れられた、いのちの息吹なる「息靈」それ自体を、無心に息吹し、息吹そのものとなりきることによって、その吐含する一息ごとに、「息靈」の無根なる息の根より発し、またそれに帰入し、かくしてその一息ごとに、たえずそのいのちの息吹を更新する「生成する土塊」、そなわち「息す土」、ないし、「生す土」であると言いうるであろう。

ここから松山氏は「産土」を引き合いに出しつつ、人間が自ら生み出す力を持つ土塊であると主張する。つまり人間は生命が自らを増やし養う一種の「産屋」として、あるいは単なる土壌として存在するのである。それゆえに人間はそれ自体が主体的に構想し、自らの享受に仕えることのできない存在でもある。単に孕む場所、つまり「肉(caro)」でしかない。

 実際spiritusとは、ルターによれば「はらわた(intestinum)」なのである。

 初めて神が息を吹き込む(inspirari)時のことを考えると、深く納得されるのは、人間もまた物を制作する時には、そこあるのは何らかのイメージにしたがった精神の分有の過程であるということである。『創世記』に従えば、私たちは錬金術師や芸術家たちが神の創造を反復するのではなく、むしろ神に創造されることを繰り返しているのだと主張することができる。彼ら天才は神の業を自らの技術において繰り返すのではない。むしろ自らが、目の前にある素材と同じ素材に一度還元されることを通じ、物質的連続性の下で、自らの身体変容の途上で、自らの身体と目の前の素材に至るまで神の息吹を貫かせる必要がある。

 この時のことを、臍帯的関係、ないし神経的関係が結ばれる、と呼ぶことができるだろう。素材を産み出すことはできないし、素材に宿る生命を産み出すこともできない。もしも私たちが無機物から有機体を産み出したとしても、抽象的なそのような力を直接的に生み出すわけでもない。その限りで、技術とは人間にとって奇妙なものであると言わざるを得ない。例えば生殖技術は養うのだろうか、孕むのだろうか。

 人間が動物であることは言うまでもない。人間も生殖し、その結果生存することが可能である。だがこの時、それは既に神との関係のもとに置かれているならば、なお人間は種ではない。種ではないのならばそれは通常の意味での動物ではない。繁殖は、一種の動物模倣の技術であり、増えて地上に広がるために、人は動物から増える技術を習得した。仮に人間が一切の動物的な繁殖行為をやめる時、本当に人間は絶滅するのか、私にはわからない。普通に考えれば、個体やその集合としてのポピュレーションは減少し、やがて絶えるだろう。だが、spiritusがある限り、それはexistentiaを持つのである。

 つまり、大地として、神として、私たちは抽象的なhomoとして二重に存在し続ける。個体的で生命的存在として個体となっていることは、homoにとって宿命的なことではあるが、必然的なことではない。実存主義は、再び私たちを一旦土と精神に解体するところから始まるはずである。私たちにとってessentiaは問題ではない。質料形相論的に考えるのではなく、生成的なスカラー場として、私たちはこの自ら練ることで均すことのできない存在として、Bildungしていく必要がある。

 ここから結局ルターのいうところの、霊的存在としての実存的な在り方はつまり信仰と同一視される、という考えに行き着くことになるだろう。

 

※2023年8月13日、一部修正、追記。

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