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Germanistik, Philosophie(Aufklärung, Phänomenologie, Logik), Biologie, Musik und Kunst

ニコライ・トゥルベツコイ『音韻論の原理』1939年 (1)

使用テクスト:N.S. Trubetzkoy: Grundzüge der Phonologie. Göttingen; Vandenhoeck&Ruprecht 1977 (6. Auflage)

  Nikolai Sergejewitsch Trubetzkoy 1890 (Moskow) - 1938 (Wien) 

    

 民族誌言語学を専攻した彼は、1916年サンスクリットの比較言語学的研究で教授資格を得る。まさにロマン派言語学の系譜に属すとも言え、1929年には形態音韻論を提唱した。言語を一種の共同的有機体としてみなす見解が 1939年に書かれた本書の特徴を規定している。そこからPhonetikよりPhonologieを独立させる意義が見出される。

Der Sprachakt setzt aber noch etwas voraus: damit der Augesprochene den Sprecher versteht, müssen beide dieselbe Sprache beherrschen, und das Vorhandensein einer im Bewußtsein der Mitglieder der Sprachgemeinschaft lebenden Sprache ist die Vorbedingung jedes Sprechaktes. Im Gegensatz zum immer einmaligen Sprechakt ist die Sprache oder das Sprachgebilde etwas Allgemeines und Konstantes. Das Sprachgebilde besteht im Bewußtsein aller Mitglieder der gegebenen Sprachgenossenschaft und liegt unzähligen konkreten Sprechakten zugrunde. Anderseits hat aber das Sprachgebilde keine anedre Existenzberechtigung als die Ermöglichung der SPrechakte und besteht nur insoweit sich die konkreten Sprechakte darauf beziehen, d.h. insoweit es sich in den konkreten SPrechakten aktualisiert.*1

 ここでTrubetzkoyが、ハイデガーの概念を用いているように見えることに注意が必要だ。とはいえそれ以上に、共同的意識のなかに遍ねく顕在し得る発語行為(Sprechakt=パロール)と、同時時代的な使用の中にある言語形態(Sprachgebilde=ラング)という「抽象的規則」ないし「概念の枠組み(Begriffsschemen)」であるラングとの区別を通じて、彼が言語現象を「なすこと」と「なされたものの集まり」に分け、それによってSaussureのle sinifiantとle signifiéの区別から更に一歩を進んでいる。前者は前者として具体的な指示機能と指示された物の領域をそれぞれ持ち、後者は後者でそれらを持つとTrubetzkoyは指摘している。これはJ.L. Austinの『言語と行為』How to do things with words (Havard 1962)を遥かに先取りしている思えるのだが、Austinがそれを著すのは二十年以上後のことなのだ。

とはいえSprechgebildeの指示機能とは一見奇妙ではないだろうか。彼は次のように述べている。

Was ist aber die bezeichnende Seite des Sprachgebildes? Wenn die bezeichnete Seite des Sprachgebildes aus Regeln besteht, nach welchen die Welt der Bedeutungen in Stücke geschnitten und diese Stücke geordnet werden, so kann die bezeichnende Seite des Sprachgebildes nur aus Regeln bestehen, nach welchen die lautliche Seite des Sprechaktes geordnet wird. *2

 それゆえSprachgebildeは、部分的体系の集積として捉えられ、その下でこそ文法カテゴリーが文法体系を、意味論カテゴリーが意味論体系を成す。それらは諸連動のなかでバランスを維持しているので、どこかが変化すれば全体の変化が生じることになるが、それを可能にするのがこの上位概念として据えられたSprachgebildeなのである。そしてSprechaktがまさに話す行為そのものであるがゆえに、それは発音のシステムの実現化として、Sprachgebildeに関係する。

そして「Sprachgebildeにおける指示するものは、Sprechaktにおけるそれとは全く別物である」ことが示されたうえで、彼は同様に二つの異なった発音教理を導入するよう提案するのである。Sprechaktにおける発音と、Sprachgebildeにおける発音のシステムを別に研究する必要があるのだ。そして前者を音声学Phonetikと、後者を音韻論Phonologieと名付ける(なおこの時代、PhonetikとPhonologieの区別は地域差があり、言語の共時性と通時性に関しての見解も様々だったことがTrubetzkoyによって指摘されている)。

そして前者は意味論の領域に一種の規定を与えることになるが、後者はそうではない。これは彼が方言の研究を参照してることからもわかる。いや、というよりも彼が目指しているものは、比較言語学の延長上にあるはずである。つまり彼にはひょっとすれば、言語はそれ自体、伝達の道具として管理されるべきものではなく、独自の存在として一つの統制された領域を有しているという信念があるのかもしれない。言語はそれ自体、確かに共同体の精神に根差しているにも拘らず、その遷移は独自の原理に基づいていると考えられる。

従って、認知言語学的に比喩の研究が始まってようやくTrubetzkoyの言っていることは理解されるはずである。確かに言語学は今や、どちらかと言えば計算機科学や形式論理学、そして認知科学や進化生物学の領域において研究されるべきものとなっている*3。これにはNorm ChomskyやGeorge Lakoffの功績が大きいのであって、まるでSaussure周辺の構造主義はどこかに忘れされられている。しかしながら言語を自然科学の対象として分析しようとする試みこそ、Jacobsonが明言したように、構造主義言語学の要諦であったことは確かだ。

まずTrubetzkoyはPhonetikが、いかに自然科学的な分野であるかを説明する。

Da das Bezeichnende des Sprechaktes eine einmalige Naturerscheinung, ein Lautstrom ist, so muß die Wissenschaft, die sich damit befaßt, naturwissenschaftliche Methoden anwenden. Es kann die rein physikalische, akustische, oder die physiologische, artikulatorische Seite des Lautstromes untersucht werden, je nachdem ob man seine Beschaffenheit oder seine Erzeugung erforschen will -- es muß aber eigentlich beides gleichzeitig getan werden. *4

それは発音のメカニズムに関して、生理学的な次元に至るまで一連の音声の性質と産出を分析することを通じて明らかにすることが目的であり、それもまた一種の自然科学的方法である。つまり、換言すれば、

Die einzige Aufgabe der Phonetik ist eben die Beantwortung der Frage, „wie dies und das gesprochen wird“. Und diese Frage kann nur beantwortet werden, indem man genau angibt, wie etwas klingt (oder, in phsikalische Sprache umgesetzt, welche Teiltöne, Schallwelen usw. der betreffende Lautkomplex aufweist) und wie, d.h. durch welche Arbeit der Sprachorgane, dieser akustische Effekt erreicht wird. Der Schall ist eine mit dem Ghörsinn wahrnehmbare physikalische Erscheinung, und durch die Untersuchung der akustischen Seite des Sprechaktes berührt sich die Phonetik mit der Wahrnehmungspsychologie. Die Artikulation der Sprachlaut ist eine halb automatisierte, aber dennoch vom Willen geleitete, zentralgesteuerte Tätigkeit, und durch die Untersuchung der artikulatorischen Seite der Sprechaktes berührt sich die Phinetik mit der Psychologie der automatisierten Handlungen.  *5

 結局のところ彼は一言で「音声学は、人間の談話の(発音の)素材的側面についての科学と定義され得る」(Trubetzkoy, S.14)と述べる。彼は音声学における生理学的・心理学的側面を強調する。これを現代風に言えば、神経言語学と名付けることもできるだろう。WInfried Menninghausがマックス・プランクの研究チームで取り組んでいるような神経詩学ヤコブソンの功績の系譜にあり、Sprechaktの一環としての詩に見られるパラレリズムや「関心」カテゴリーを引き継いだロマン派言語学の一つの側面と見做すこともできる取り組みである。だが、ここにもう一つの側面があるのも確かなのである。それは単に詩のもつ響きが人間にもたらす感覚的効果のみならず、民族的・共同体的精神に由来する特有の効果についての学問であるともいえる。すなわち、Das Bezeichnende des Sprachgebildeを分析する学問である。

Die Phonologie hat zu untersuchen, welche Lautunterschiede in der betreffenden Sprache mit Bedeutungsunterschieden verbunden sind, wie sich die Unterscheidungselemente (oder Male) zueinander verhalten und nach welchen Regeln sie miteinander zu Wörtern (bezw. Sätzen) kombiniert werden dürfen. Es ist klar, daß diese Aufgaben nicht mit Hilfe naturwissenschaftlicher Methoden gelöst werden können. Die Phonologie muß vielmehr dieselben Methoden anwenden, werlche bei der Erforschung des grammatischen Systems einer Sprache angewandt werden. *6

つまり、音韻論は意味解釈との密接な連関のもとで音声を分析する。つまり、いかにして一定の発音から意味解釈可能な識別を人間が行うのか、という規則的な側面をあつかうのである。したがって、解釈学的側面をもつがゆえに、これは「世界」や「伝統」といった概念と結びつかざるを得ない。とはいえ、このような概念が、飽く迄人間社会に内属するのではなく、それを可能にする次元にあるからこそ、それらはあたかも「第二の自然」として独自の存在領域をもつのである。故に、音声学における自然的な音響に属する音声と、文法をもつよう飛躍した言語に属する音声とは、互いに前提としながら別々の――それでいてやはり個々の人間意識とは独立した――領域に広がることになる。敢えて言えば、ここには二つの超越論的次元がある。

Trubetzkoyは一言で、「音韻論は発音に即して、何が言語形態(Sprachgebilde)における特定の機能を満たしているのかをのみ、一目の内に捉えねばならない」(ebd.)と述べている。 

なお、ひとこと加えれば、実に興味深いのは、彼が音韻論の音声学に対する関係を、国民経済学の商品学に対する関係、もしくは金融経済学の貨幣学に対する関係に等しいと捉えている点である。あるいは、こうも言っているのだが、音声学の取り組みはは動物学における動物種や植物学における植物種の分類と比較できるという。すなわち、「言語音声の言語機能」に関する理論である音韻論と、「言語音声の現象学的側面」に関する理論である音声学、という分類も彼は提示している。このような諸々の区別が言うところは、まさに18世紀における比較解剖学や生理学の発展に対し、ゲーテが形態学を呈示したあの学問秩序に他ならない。

すると私たちは奇妙にも、コミュニケーションの学問に遭遇することにもなる。あるいは辞書学的次元の意味論にも。私たちが実際にどのように言語を用いることができるかは、確かに言語の使用に基づく分析に還元されてしまうように見える。しかし、言語の使用は使用に過ぎない。それは文法とは異なるのである。あるいは、こう言える、音響を単に鳴らしただけでは、コンセプチュアルな次元や規則の次元に突き当たることはない。逆に、解釈者次第では、どれほど単純な構造の音声に見えても豊饒な意味をもつことがある。だからこそ、言語と非言語表現を含むコミュニケーションは明確に区別されなければならない。

となれば、私たちは次のように区別することができる。

 音声学 音響としての物理的、構造的側面、音声としての発音機構、聴取機構
 コミュニケーション論 非言語も含む表現の物理的、構造的側面、表現の信号体系
 音韻論 音響としての意味的、伝統的側面、音声の機能の可能性条件

音声学の可能性は、発達期にある動物がいかに音響現象をパターン処理するか、そしてそのことを通じてコミュニケーションや解釈への道を拓くか、という点にある。だが飽く迄入り口までだ。そして音韻論はその先にある可能性を探るのである。

Grundzuege der Phonologie

Grundzuege der Phonologie

 
Language in Our Brain: The Origins of a Uniquely Human Capacity (The MIT Press)
 
エコラリアス

エコラリアス

 

*1:Trubetzkoy, S.5. なおFerdinand  de Saussureの『一般言語学講義』で有名となった区別、パロール(Sprachakt)とラング(Sprachgebilde)に関して、Trubetzkoyは更に、Alan H. Gardinerの "Speech and Language" (Oxford 1932)と、K. Bühler "Axiomatik der Sprachwissenschaft" (Kant-Studien XXXVIII)と"Sprachtheorie" (Jena 1934)、を同様の対象について扱った文献として挙げている。また「ラングに属す」ことが、O. Jespersen "Linguistica", Kopenhagen 1931ではglottischと呼ばれているとも指摘している。こうした表現の「舌」への拘りについては、ヘラローゼンの『エコラリアス』を適宜参照のこと。

*2:Trubetzkoy, S.6. このようなSprachgebildeの性質は、彼がこの語に込めた「イメージ」の漂いと集まりを惹起させるニュアンスをくみ取れば、シュペルベルが定義した「象徴」の概念をここで参照しても自然なことであろう。重要なのは、この意味で「象徴」とは単に具体的に指示されているものだけでなく、それ自体の構成原理をも内包しているという限りで、自律的存在と思われる点である。このような「象徴」の味方は、ともすれば最終的な根拠を欠くように見える。この論点をも含め、フィヒテの後期『知識学』やシェリングの『芸術の哲学』を参照する必要がある。

*3:Angela D. Friederici: Language in our Brain. MIT Press 2017. 他参照

*4:Trubetzkoy, S13.

*5:Trubetzkoy, S.13.

*6:Trubetzkoy, S.14