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Germanistik, Philosophie(Kantianismus, Phänomenologie, Logik), Bioinformatik, Musik und Kunst

spiritus et existentia 2

 

1. April - 5. April 2020 

 

これもまた一つの日記である。

 

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youtu.be

 

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存在しない場所とは、「場所 place」として存在しないのか、空間的に存在し得ないのか、本当のところよくわからないものである。確かに原語のtopos という語からすれば、これは一種の図式的なものと理解すべきなのだろう。それは図式的なものの内部には存在しない、an sich なものであるのかもしれない。しかし、だとすればそれは非空間的であれ、どこかに存在しうるということなのか。出来事 histoire のなかに存在し、私たちには知り得なかった「場所」として、知性的にこそ経験され得る領域だったのだろうか。

直感的に知られており、公然たる秘密となっていることに、場所は歴史を持っているのだから、同じ状態だったことはない、それどころか地理的に存在してこともなかった時代すらある、いや、地球以前には、宇宙以前には存在しなかったという事実がある。あたかも同じ川は存在したことがない、という懐疑的な見解と表面上似通うにも拘らず、実際は全く意味は違う。というのも、裏返せば場所にこそ流れ出る出来事 histoire があるのであり、大地からこそ夢想 Phantasie は湧き出てくるものである。空間は非対称性の誕生によって個別化が進むに伴い開かれ、そこを埋めるものが初めて宿す何かがある。夢想とはまさにそのようなものである。

カルダーノは神的知性との媒介として霊 spiritus を規定した。そしてその上で彼は、次のような隠喩を用いるのである。即ち、叡智やその他価値あるものは大地より掘り出される、と。 

Sapientia ut alia pretiosam erunda est é terrae viceribus.

 カルダーノはここで叡智と貴石を並べている。それは結晶化するものであり(つまり幾何学でなければならず)、掘り出されるために探索されねばならず(はじめは決して目に見えるものではない)、何より足元に眠っているものであるということだ。叡智とはつまり、反転した夢なのだ。

こうなると私たちはディストピアという言葉の奇妙さに気付かされる。それはよく反転されたユートピアであると言われる。だがユートピアが夢想ならば、その鏡面構造体は叡智であルはずだ。それならばディストピアとは、高度に技術化された結晶世界に他ならないというのだろうか。なるほど、それは疾うに指摘され、また描かれてきたことである。

私たちはそこでは単に霊的存在としてのみ、居住地を、部屋番号を持つことができる、というわけだ。そこでは生存に関わる権利は一切度外視されることになるだろう。まるでアップロードされた意識だけが住う電脳空間内の制度では、その外で眠り続ける基盤としての身脳 meatware は一切考慮されないように。

だが外部に対する制度上の配慮が必要となる。そこでは肉と霊は外交関係を取結び、交易相手となるのかもしれない。情報概念は予めマネタイズされた比喩に過ぎないので、まるでコンテナ搬送船のような巨大な構築物が行き交い、クレーンが首をひねくり回し、キャッシングされる。あるいはまた、銅線で無数に鎖状に繋がれた身体において、私が私であるというID情報を記述主義的同一性の原理に基づく帳簿によって識別可能にすることで、価値あるものを発掘 mining するのだろうか。そしてそうやって私たちはより柔軟に電脳空間内で運動するのだろうか。それとも電脳空間は完全に meatware を放棄し、単にシリコンチップのなかで完結できてしまうのだろうか。

そこではもはや Phantasie が失われてしまう。それは眠る場所がない、そしてそれ故に叡智も失われてしまう。創造の過程はBild を形成するために、自らを霊と肉の、二重の実存として委ねてしまうこと、媒介の通り抜けていく「場所」として、自らの内部に痛々しい鋭さを持った結晶がなるのを許容する必要がある。それは妊娠とでも、胆管結石とでも、なんとでも喩えればいいが、ただしそれは価値あるものでなければならない。

 また逆に醒める場所もない。私たちはどこまでも空想の世界で生きており、醒めることなど無くなってしまう。それは比喩的無意味での死の消去に他ならない。言語の構造体の中に死の居所は無くなってしまう。死は本来所有していた比喩を、電脳空間の登場に伴う資産喪失によって空想に売り払ってしまうのである。死の(あるいは生や生殖行為の)価値がバブル崩壊を迎える−−。

RNAウィルスの世界とはまさにこのようなものかもしれない、と私は思う。ウィルスに非記号的であるとは言え、それでも意味的世界があるとすれば、そのような意味世界を生きているに他ならない。潜伏期間の計算から引出される「ハザード」の可能性領域を考えてみればいい。私たちはそこに、種々の同じ構造の出来事が「同一の場所」で生じていることを理解することができる。それは単なる偶然の一致であるにも拘らず、タロットの配列のように私たちは啓示を受けることがある。ウィルスは結晶化する時を私たちの中で待ちながら、それでいて同時に発掘し続けているのである。この創造的な二重の実存が、実のところウィルスにもある。

まことしやかに囁かれる伝説がそこではあるだろう。それは最後の戦略を伝えるけれども、私たちにとってアプリオリな全てを放棄することによってのみ可能となる戦略に関する伝説。それを私たちは側耳立てて聞くことへの誘惑に駆られてしまうが、しかし慎むことも必要かもしれない。

聞いて極楽見て地獄。南無三宝

f:id:anti_optimization:20200406121910p:plain  Alfred Kubin

 

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