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Germanistik, Philosophie(Kantianismus, Phänomenologie, Logik), Bioinformatik, Musik und Kunst

Cloud Pattern Ruler 2

暖かな昼の明るさが公共に供されたこの彫刻に誘き寄せたのは、啓蟄を了えた渦巻く生命だけではない。本庄まな子の心根が、その表層を、そして深層を、厚みを超えて這い寄り、僅かな隙間から侵入し、最後にはこの物自体を頑健に維持する繊維となるように伸びていく。目の前の物が、その心根の進入によって返って破砕されないように、慎重にこの厚みを感じていく。表面に小さな甲虫や羽虫たちがゆっくりと歩き、止まり、匂いを嗅ぐように頭を動かし、所々名も知らぬ草々の芽がひょっこり飛び出ている。長く伸びた刃のような硬い葉はこの冬を超え、その前の冬をも超えたように見える。茶けた苔が僅かに張り付いているが、海岸沿いの湿った風の強さがその成長を妨げ、返って岩の表面が酸化し、剥離することを防いでいる。その代わり、鳥の糞や波飛沫、強風そのものが、この形をなすに力を加え、時間的累積を風化とともに吹き飛ばしてしまいたいかのように、潮高く入江深くまで上ってこれば唸りを上げる海が漱ぐことすらある。だからこの岩塊は常に若く見える。そして年々矮小となっていると思えない。返っって膨張しているようにすら見える。

正確にはこの彫刻は誰によっても造形されたわけでもなく、ただ自然がそのように造形したに過ぎない礫岩の塊だ。土の捏ね上げられた陶磁器、あるいは石目に沿って掘り出された彫刻、礫岩の塊はそのどちらでもあった。まな子は目を見張って見つめていた。それは彼女にとって、一種の雲型定規となった。街を歩けば「ズボンを履いた雲」の形をした定規、「プラダを着た雲」の形をした定規、そして親戚の葬式で目の当たりにした「嘆き女の仮面を被った雲」の形をした定規。そのいずれもが奇妙な自然曲線を描きながら彼女のデッサンをする手元を美しく狂わせてきた。しかしここにあるのは雲ではない。ごつごつした岩だ。そしてその定規をなすことは困難だった。だが、だからこそここから定規をなすことが、彼女にとって重要な課題となり、大学や勤務先を時には体調不良で休みながら、電車を乗り継ぎここまでやってくることがよくあった。デッサンはいつでもそのどこか部分に留まるしかない視線の痕跡を引き写していた。そしてその都度、この岩塊が絶えず変化し続け散ることに気づかされるのである。

鴎が港より登る風に乗って浮かび上がり、何度も同じパターンで鳴いている。彼女は今日も日が暮れる前にデッサンを終えて帰ろうというところだった。入江に蹲るようにしてできた漁村の、僅かに海へ突き出た低い砂嘴の先に、突如現れているその巨大な岩塊。どこからやってきたのか全くわからないから、地元では御神体として祀られているが、注連縄が結ばれるのは生き神となった鍵持ちが神主に導かれて供儀を執り行う祭礼の時だけである。稲藁でできた注連縄を年中新しいままにしておくことはあまりに困難だからである。スルメイカや鯛、海藻の類は、まだ生きているうちに犠牲となり、そして太陽と風による乾燥を通じて幾月か後の直会で神々と人々の腹に収まる。彼女は民宿の主人と話をしたり写真を見せてもらううち興味が引かれ、急な階段を上り、入江に切り立つ崖の上に建つ神社に通い、その様子を写真に収めることも繰り返ししてきた。

珍しいほど穏やかな風が彼女の頬を撫で、まだうっすら残る寒さを彩る梅の花がはらりと斬首された肉体のように崩れた。港には人気がなく、集落全体も静まり返っていた。駅まで曲がりくねった坂道を上っていき、ぼそぼそとした石灰の腐食した土が目立つ馬鈴薯畑の端を通り過ぎていく。途中細かな羽虫がいくらでも集っており、蜘蛛が巣を忙しく手織りしているのが見える。側溝を湧き水がせせらぎ、流れ下っていき、途中でいくらか顔を合わせたことのある老婆が洗濯をしている。何処も彼処も、野焼きがなされていて、煙が夕餉と、そして恐らくマイルドセブンと混交して立ち上り、複雑な匂いをなしているのだが、それはもはや彼女にとって懐かしさを感じさせるものにすらなっている。

無人改札を過ぎて、一時間に一本の上り電車に乗り込む。少しずつ灯が現れ始め、遠景に夕映が紫の滲みを作り出している。群青と朱の境界が明瞭になるにつれ、彼女の表情が車窓に鮮明に映し出されるようになる。そして彼女はゆっくりと眠りのような想像の時間を過ごすようになる。何かの曲を口遊んでもいた気がするし、いつの間にか乗客は増えて、降りて、いくつも町を過ぎて行き、見慣れた歯科医や学習塾の看板が駅構内に並んでいる。商店街の匂いや、ビニール袋のがさがさとした耳障りな音、そして学生たちの浮ついた声。そのいずれもが彼女には関わりない遠くの出来事に思えてくる。見えない夜の帳は、彼女の周りにしっかりと降りていた。まだ世間は、蛍光灯に照らし出されて午後七時の昼下がりを迎えているかのようだが。

 

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⁂ 

 

それから一週間も経たないうちに、世界はめりめりと音を立てて裂けていった。まな子はその中で一人の女と出会い、殺すに至った。

 

(続く)

 

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