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Germanistik, Philosophie(Aufklärung, Phänomenologie, Logik), Biologie, Musik und Kunst

ハイブリッドに対峙する:COVID-19関連論文・記事の要点(1)

COVID-19に関しては、様々な分野で論文や記事が書かれ続けている。医学系、疫学系の論文を読みこなすのは困難であるが、私が十分に読むことができ、関心を持てるものをここに集約し、その要点を抜粋する。これは今後論文を書くための準備であり、基本的に私見を述べるつもりもないのだが、それでも選択の前提に私が暗に述べたい視点が入っていることを断っておく。また、これからもいくつも集めていく必要があると感じている理由があり、それは圧倒的に男性、そして日本はともかく西欧の書き手によるものが多かったということである。これが例え偶然的であれ、そのような偏りは気にすべきことであることは確かである。故に、今後もこの記事は続けて更新していくつもりである。

 

浜田明範氏がツイートでラトゥールを引き合いに出していたのを、私はすかざす同意せざるを得なかった。 

パンデミックという現象が生じること、そしてウィルスに対応するということが、非人間ないし自然と人間ないし社会を分離しようとする近代主義に対し、ハイブリッド化した現象が弁証法的に迫ってくるという、ラトゥールの議論である。この是非をここでもやはり直接述べる気はない。しかし私は概ね好意的に受け止めており、そのような枠組みの有効性を考えたいと思っていもいる。というのも、感染症対策、あるいは公衆衛生は、常に三つ因子を考慮に入れなければ評価しようがないからだ。一つは無論「ウィルス」、そして個々人の「身体」、最後に「社会」である。ここで「身体」はまさに「ウィルス」と「社会」が互いに侵入し拮抗する場所となる。特定のウィルスが持つ自然的で普遍的な性質とは別に、それに抗する身体は歴史的条件に束縛されており、それは栄養状態、医療体制、政治決定と関連する行動規範、諸々である。それ故、ハイブリッドとしてのパンデミックは巨大な「権力」という「社会身体」の罹患だと類推できる。

とはいえ、上述した論文にどの程度それに取り組む紙幅があるかは不明である。

 

さて、以下はもうすっかり他人の知見であるのだから、注意深く元の記事にも当たってもらいたい。

まず、基本的な歴史的観点からの整理として、鈴木晃仁氏の記事が参考になる。

gendai.ismedia.jp

氏の歴史学的かつ、整った時系列的な事実の整理はそれ自体惹かれるが、次の意見はやはりハイブリッド化したパンデミックという現象に対峙することの必要を述べていると理解することは十分できる。

おそらく本当に重要な動きは、世界の新しい体制の設立の流れであろう。ウィルスによる感染症が、先進国で大きな被害を出すパンデミックに変貌した。それをテクノロジーと人々の市民意識によってどのようにコントロールするかという議論が中心になるだろう。*1

 結局のところ私たちが、例え自然の産物であるウィルスと対峙する以上、そこに政治的決定やテクノロジーの状況だとが関与して、初めて感染拡大という現象が生じ、それを解決するにも私たち自身の問題としても考える必要がある、という、敢えて言えば常識的な判断である。

さて、次は浜田明範氏の記事である。

gendai.ismedia.jp

この記事で氏は、ケアの観点を導入しながら、実際に感染症の流行拡大をいかに防ぐのか、という具体的な行動のために必要な「態度」を簡潔に指摘している。

専門家会議の声に耳を傾け、正確な情報を入手することは決定的に重要である。また、それに基づいて、私たちのひとりひとり日々の生活を見直すことは、それ以上に重要である。しかし同時に、私たちは、自分や他者による些細な行動がこの感染症の流行拡大に寄与し、また、他の人の命を奪う遠因になってしまうことを、ある程度どうしようもないものとして受け止め、許容しなければならない。*2

 そもそも氏によれば、政治的な強力な介入を求め、それによって感染者数0を目指す機運が高まれば、それに応じて感染者の存在を隠蔽するインセンティブが高まってしまい、首長たちの誇らしげな態度と裏腹に長期化を懸念せねばならなくなる、というジレンマが生じる可能性があるという。確かにそれはそうなのかもしれず、中国の対応はその典型であるともいえる。さらに当国でも懸念されている再流行も、この0への機運によって危険なものとなりかねないとされる。

このようなインセンティブは個々人においても生じる可能性がある。故に重要なのは、感染症に対し、道徳的ではなく法的・政治的に考える必要があるということだ。いや、より正確に述べるとすれば、自分が「道徳的」な判断を下す際に、何を根拠にしているかを反省すべきであるということだ。というのも、浜田氏はやはり強力な権力により介入の有効性に疑念を抱いているには違いないのだから。

できるだけ感染リスクを減らす行動をしようとすると、そのように行動していない人の姿が目に付くようになる。専門家の声に真摯に耳を傾けている人ほど、そうでない人に対する怒りの感情がわいてくることもあるかもしれない。[......]
しかし、そのような道徳的な非難もまた、結果的にこの感染症の流行を長期化させることになる。何か迂闊なことをして自分が感染したかもしれないと思ったとき、多くの人に後ろ指を指されるくらいなら、なんとかして感染を隠そうとする人が出てきてもおかしくない。この感染症を発症した人の多くが軽症ですむことを考えると、その可能性は決して低くない。*3

 もしもこういうことならば、緊急事態宣言の段階が高まっていき、より具体的、より特定的な規制が進めば進むほど、道徳的批判が高まっていくことが容易に想像できる。そしてどうなるか。その風潮自体が、感染症蔓延を長引かせる可能性もあるのかもしれない。

「ペイシャンティズム」というモルの概念を導入し、誰もが患者となる可能性のもとに置かれていることを前提に、行動が所与の状況と地続きなまま変容されねばならないことの難しさを理解する必要がある、と氏は述べる。 

私たちは、個々人に選択と決断を強い、その結果についての責任を個々人に負わせようとする、モルが「選択のロジック」と呼ぶ考え方を称揚する社会で生きてきた。しかし、あれをとるかこれをとるかを迫るやり方で、この感染症に対峙していくのは難しい。*4

こうして氏は個人に責任を負わせるような対応の拙さを的確に指摘している。 このような議論は、今回のように自分がいつキャリアになっているかわからないような感染症に関してはとりわけ有効であると言える。また、未知の感染症に対峙する以上、医療関係者や公衆衛生に実際に携わることになった専門家たちに関しても同様のことが言える。つまり、彼らも限られた知識や資源、技術のもとで対峙しているのだということだ。

モルは、「選択のロジック」とは異なる「ケアのロジック」が存在しうると主張している。それは、それぞれの生活の個別性と具体性に寄り添いながらなんとかかんとか持続的に生活を調整することで、可能な限り生をつないでいくことを目指す。それは、それぞれの生活にどのような危険性が存在しており、どうすればどうにかこうにかその危険性を減らすことができるのかを、具体的な細部や物質的な状況に即して検討して、生活環境を改変していくようなアプローチである。*5

これは歴史的に見てもかなり一般性のある、強い主張としても妥当だろう。穏健かつ常識的な議論に思えるかもしれないが、実のところ洗練されているという意味で常識的なのであり、臆見や偏見とは違う。そういう考えの規範がなおざりにされる時、また、押さえ込まれる時、確かに私たちは乱雑に生きることを躊躇わなくなり、その結果として感染症はいつまでも解決しないことになる。責任の個人化という観点は捨てることができない。しかし、一体何故に個人に責任が着せられるべきなのか、その道徳的根拠を私たちは見直す必要がある、というわけである。

 

(続く)