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Germanistik, Philosophie(Aufklärung, Phänomenologie, Logik), Biologie, Musik und Kunst

ハイブリッドに対峙する:COVID-19関連論文・記事の要点(2)

前回記事の続き。

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次に紹介したいのは、医療人類学者磯野真穂氏への4月2日午後に行われたインタビューの記事である。この記事ではベースラインとして管理社会へ向かう懸念と、しかしそうは言えども行動制限の対象となる人々の生活への目配せが重要であり、これを「感染者拡大」を基準とした道徳意識で割り切ることには疑問がある、という論調がある。これは前回記事で紹介した、同じく医療人類学者の浜田明範氏の視点とそれほど変わりはないように見える。

「問われているのは『命と経済』ではなく、『命と命』の問題」 医療人類学者が疑問を投げかける新型コロナ対策

この記事で特に抜粋すべき場所は、次の箇所だろう。京都大学医学部の宮沢孝幸氏がいつまでもほっつき歩いたり飲み歩いたりしている人たちに「さっさと感染しちまえ」と挑発的な言葉で警句を吐いたことに対する磯野氏の見解である。

でも「とっとと感染しちまえ」と言われた人たちが訪れる飲み屋には、その仕事がなかったら路頭に迷う人がいる。お金の問題だけでなく、不要不急と指差される場で日々生活することを人生の糧と生きることの意味にしてきた人たちがいるわけです。

そんな生のあり方が、感染するリスクがあるかないかだけでぶった切られてしまう。何が不要で不急かが、ある疾患にかかるか否かの医学の視点だけで決められ、それが唯一の巨大な道徳となることに私は違和感を覚えています。

私はこの躊躇いがちな意見に、半ば賛同するし、半ば反対だ。それは医療に関わる人間自身が、その生活と人的リソースの限界を有しており、それを超えることが何を意味しているかを知っている限り、「無責任」に見える行動に対し警告したくなる気持ちは、「不要不急」と断定されてしまう人々の生活へと同様配慮に値することだと思うからだ。磯野氏もそれを分かった上で、宮沢氏のツイートに無数の「いいね」が付けられた事に対する警戒心を表しているに違いない。

とは言え、私は敢えて言いたいのだが、こうした場面で「無責任」と言われる人は、やはり感染拡大に伴う社会的損害を考慮して、自分にもできる事に積極的に参与しない、それどころか実践しない人物のことをいうのだろうが、これは形式的には民主主義社会における政治参加全般に言えることでもあるのだ。私にできることはない、と開き直るなり悲観するなりは、結局のとろこ自分ができることを明らかにすることもなく全て放棄している。それが仮令狭い範囲のことで、あたかも自分の関心にのみ従っている蚊に見えたところで、「見えざる手」のようなものを信じることなく、そこに積極的に実存的意味を構成していくことがある。それは結局「市場」という隠喩から離れ、経済的観点から離れて自らの生なる事実を根拠に持つことを言う。

だからこそ磯野氏の次の発言は、全く理解に苦しむのである。

もちろん補償は大切だと思いますし、早急に出してほしいと思います。
ただ経済の問題とは別に考えたいのが、金銭的保証と、生活の制限はトレードオフになるのかという問題です。
「月額30万円いただいたので、自分の日々の生活が監視・制限されることを許可します」
そんな形で私たちは自分の生活をお金と引き換えに明け渡すのでしょうか。 コロナにかからないこと・うつさないこと、それだけが私たちの生きる目的で、それだけが私たちの前に突きつけられたリスクなのでしょうか。
この感染症は未だ出口が見えません。
その出口が見えないまま、緊急事態宣言が発令されれば、私たちの生活の目的はこれまで以上に「コロナにかからないこと、うつさないこと」に集約され、生活のあれこれが不要不急の観点から整理される日々が続くことになるでしょう。
そうやって私たちがありふれた生活を諦め、これまでの生活の中では決して許されなかったことを許容し、遂にはその生活に慣れる時、私たちはそこで何を手放し、失うことになるのかも想像すべきではないかと思います。
未来が不確定な時、不安に駆られた私たちはより大きな声の統制を望みます。それは安心を与えてくれるかもしれませんが、その安心は思考停止と表裏一体です。

 磯野氏は、実際に緊急事態宣言が出るよりも前から、既に何ヶ月も減収や休業に苦しむ業種がいくつも存在し、個人業主や会社経営者、非常勤職員が生活を切り詰めたり困窮していると言う事実を知らないのだろうか。それを知っていれば、こんな悠長なことは決して言えないのではないだ廊下。生活を諦めるのには疑問だ、と言う視点は、行動制限さえなければ元どおりの生活が続けられると言う、安易なノスタルジーに由来するのではないだろうか。それは、既に引き返せない時点に到達してしまっている種々の生活をきちんと把握できていないが故の夢想だ。実際私の行きつけのバーは既に客足が大幅に減ってしまって何週間も過ぎ、私の実家の家業も減収が続いている。これでは店を閉めることが現実味を帯びているのであって、まさに補償は(国が発令する前から自主的に行われざるを得ない)行動制限と「トレードオフ」になっている。

磯野氏はさらにこれを終末期医療に見られる「廃用症候群」や「タバコの健康上リスク」と不適切にも並べて語る。これでは彼女は、ミクロとマクロの現象に一定のギャップがあることを理解できいないも同然ではないかと思うのである。

感染拡大を防ぐ「絶対的正しさ」を相対化したいのは理解できる。それがいかなる弊害をもたらすかは、前回記事の浜田氏の記事にあった通りだろうし、それには説得力がある。だが、私が本当に必要だと思うのは、(レトリカルに絶対的など付けるべきではない)「正しさ」の根拠を再興する事の必要であって、そうでなければ逆に大きく社会も人命も、生活も損なわれてしまうのだ、と言う共通の危機意識を通じた「交渉」なのである。だからこそ「補償」は絶対に必要なのであり、その上で「正しさ」の根拠を再考したり納得してもらう事なのだ。そして適切な選択してもらう。

それが結局のところ磯野氏が求めている実存的観点からのコロナ問題への回答と、本質的に相反するものではないことは明らかだろう。私はだから「トレードオフ」などと言うマヤカシの言葉を使うべきではなかっただろうと強く思う。

この問題は詰まるところ、この国が権力の通俗化形態としての政治的・領土的アイデンティティと社会文化的アイデンティティを混同させる渦中に引き摺り込むナショナリズム(Nationalism)、あるいは主権国家に従属する個人という新たな因習(イデオロギー)ではなく、自らの住まう空間の営為に配慮する共同・協働的アイデンティティの元となるネイショニズム(Nationism)へと思考を切り替えることができるかどうか、と言う問題に導かれていく。この切り替えは少なからぬ社会で、大小生じ、求めらているものでもある。ナショナリズムとネイショニズムの差異ははっきりしている。この点について、社会言語学者文化人類学者はこれまでも強調してきた。もしこの違いを無視すれば、危険な「奉仕活動」を招くか、「奉仕活動」を危険と見てしまうか、と言った知的錯誤が生じかねない。

少し長いが、ティム・インゴルド編『人類学辞典』の項目「Aspects of literacy」から引用しておこう。ベネディクト・アンダーソンの提唱したような議論とも近似した、統一的言語の約定とリテラシーの向上、そしてナショナリズムの普及と言った事柄に関する議論の中での以下の記述である。

Fishman (1986) attempts to predict the couse typology of modern nation states that differs slightly from that offered by Smith, coining the term 'nationalism' where the emphasis is on pokitico-geographic boundaries and retaining  'nationalism' for cases where the emphasis is on socio-cultural and ideological identities. Many of the 'old' nations, he suggests, mey have begun as forms of nationalism, in which socio-cultural identity emerged first and only later became attached to the geographically bounded 'nation'. For these nations language was a prior criterion of national identity, in the sense of 'nationalism', and only later became an issue at the level of 'nation', onece these societies had made the transition from nationalism to nationism. For the 'new' nations, however, Fishman geographical-political entities and are not yet 'ethnic nations'. In these cases, 'diglossian compromises' (Fishman 1986: 47): local languages may continue to be used for local purposes, while a different, often international language such as English will be employed for educational and technological purposes. The spread of new literacies plays a major part in these processes. The effect of campaigns to introduce all members of the nation to a single literacy, for instance, may be to counter the trend towards 'diglossian compromise' and  tounderscore the process of 'nationalism' rather than 'nationism'. *1

具体例として一見全く異なるものを持ち出したため、話の方向性が若干見えにくいかもしれない。つまりこの引用を通して私は、ネイションステイトとして、ネイションに光を当てる時、私たちは何らかの社会文化的に統一されたものに従属するというより、土地、ないし空間性、あるいは自らの生活の地理的位置付けについて配慮する必要がある、ということを言いたい。これは言語における切り替えの問題と、感染症対策に対する移動距離の規模の問題と関わってくるはずである。あるいは、この感染症対策は、私的空間の保護のための「social distancing」なのか、それ以上のイデオロギー的な次元に属すものなのか(一致団結の「自粛要請」なのか)。

social distancingは本来、社交的配慮として物理的間隔を空けること、を意味するはずだが、「社会的距離」という頓珍漢な訳語が流通していることも問題である。このような訳語の流通自体が、磯野氏に見られる表面的な錯誤と重なって見えてくるのである。ここで断りを入れておく理由は、やはり氏が次のように述べているからである。

繰り返しますが、感染症が増えることを放置すればいいと言っているわけではありません。そうではなくリスクが選択的に可視化され、他のリスクが見えなくなることの危険性を指摘しているわけです。
例えば、今は毎時間のように感染者数と死者数、その後の予測が数字とグラフで示され、ショッキングな医療崩壊の映像がメディアで報道され、私たちはこうなってはいけないと自粛を続けています。
でももしそれと同時に、このような社会状況を続けた結果の失業者数、それによって貧困に陥り生活に行き詰まって心身に不調を来たす人、自殺をする人の予想が示され、それも同様におどろおどろしい音楽とテロップ、センセーショナルな映像で日々可視化されたら私たちはどう思うのでしょうか。
私はこちらのリスクもコロナを恐れると同様の強度で考えられるべきだと思います。

 これらの指摘は全く真っ当であり、私は支持する。そして特に後半部分の観点に関しては、さらに英語論文を今後紹介していくつもりでもある。

 

さて、しかし次に紹介する藤原辰史氏の記事に関してはより致命的な錯誤が見られると私は思う。この記事にあまり見るべきものはないように思う。私は書き出しから既に謬見が並べられていることに憤りすら覚えるのである。

www.iwanamishinsho80.com

人間という頭でっかちな動物は、目の前の輪郭のはっきりした危機よりも、遠くの輪郭のぼやけた希望にすがりたくなる癖がある。だから、自分はきっとウイルスに感染しない、自分はそれによって死なない、職場や学校は閉鎖しない、あの国の致死率はこの国ではありえない、と多くの人たちが楽観しがちである。私もまた、その傾向を持つ人間のひとりである。

こんな説教じみた書き出しに、私は薄寒さすら覚える。また、この記事にたくさんの賛同が寄せられているという事実にも。
 というのも、人間は全く逆の反応を示すから。アパシー。それを私はこの記事の中程で「責任」の概念に関連させて論じた。もはや藤原氏は、このような危険に際して語るべき言葉を、そして語うる言葉を持ち合わせていないように見える。そのため次のような寝ぼけた言葉が出てくるのである。

想像力と言葉しか道具を持たない文系研究者は、新型コロナウイルスのワクチンも製造できないし、治療薬も開発できない。そんな職種の人間にできることは限られている。しかし小さくはない。たとえば、歴史研究者は、発見した史料を自分や出版社や国家にとって都合のよい解釈や大きな希望の物語に落とし込む心的傾向を捨てる能力を持っている。そうして、虚心坦懐に史料を読む技術を徹底的に叩き込まれてきた。その訓練は、過去に起こった類似の現象を参考にして、人間がすがりたくなる希望を冷徹に選別することを可能にするだろう。科学万能主義とも道徳主義とも無縁だ。

 文系学者であれ、きちんと訓練している者たちはよりたくさんの道具を持っているし、こんな一般化は自己弁護にしては迷惑甚だしい。しかも、その次にウィルスに対する直接的防衛の技術がないためという錯誤が続くのである。では尋ねたい、戦争時、直接技術部隊や戦闘要員として汗や血を流した者たち以上に、言葉を持つ者たちがどのような武器を有していたのか、あなたは知らないのか、と。それは立派で危険な技術であったはずだ、とりわけ危機に対峙する時。コロナウィルスに関してもほとんど同じことが言えてしまう。もし言えないのだとしたら、あなたが語れる言葉とは所詮そんなものでしかなかったという事実を露わにするだけである。

そして私はこうして改めて表題の「ハイブリッド」の概念にももう一度目配せをすることを、読者に頼むことができる。

この記事についてはほとんど述べることはない。スペイン風邪との比較も不適切であることは、次回以降、別の記事や論文を紹介する中でも述べていこうと思う。

いずれにせよ、この記事が賛意を集めている事実は、人文知が、そして日本語の可能性領域が不毛になりつつあることを意味しているように思われる。

*1:Brian V. Street and Nike Besnier: Aspects of literacy. In: Tim Ingold (ed.) Companion Encyclopedia of Anthroplogy. London and New York 2002. p.544.