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Germanistik, Philosophie(Aufklärung, Phänomenologie, Logik), Biologie, Musik und Kunst

帰還

ここは暗い、眼は決して慣れることがない。いくつもの雫がやさしい音色を立てて壁を這いずり回っている。岩肌はその痕跡をとどめ、古い層を剥き出しにしたり、新たな鍾乳石の線描が現れたりする。ここは蒸しているが、ひんやりとした憂鬱な光で満ちている。折々地下水や鉄道、稲妻の振動に合わせ、気道が震え、龍の如き咆哮が聞こえることもある。どのような条件をとっても人が生きるには随分骨が折れることだろう。しかし一万年以上前の原始人類の骨が、何十体分も見つかった。それが居住の痕跡なのかどうか、杳としてわからない。水と風が時の累積を全てをさらっていってしまうのだ。もしかすれば、ここは墓場だったのかもしれない。この先をさらに進んだならば、そこに冥府が開いていてもおかしくないだろう。

 彼は泣いていた。彼にそのような感情が生まれつき備わっていると思わなかった。精悍な体をすらっと伸ばして、重力に負けることなく天井に吊り下がっている鰐肌の隆々たる姿は、僅かな数灯された常夜の炎に、鬼神のごとく映っていたのだから。それに実際彼がこれまで葬ってきた生命は数え切れないではないか。彼ほどの虚無主義者が、どうして泣くことなどできるのだろうか。その涙は、私には偽善にしか映らなかった。どうしたのか私が聞くまでもなく、彼は語り出した。

「いよいよ時が来たのだ。ここで別れねばならない。私は別の地へ移る。お前はどうする」
「なぜ」
「いよいよ滅びが迫ってきた。私は今朝夢を見た。いつものように陽の暮れ切った後、シンガポールの摩天楼を飛んでいた。いくつものライトが夜空を切り裂いていた。それを縫うようにして私はこの翅を力一杯風に打ち付けていた。しかし雨が降りはじめ、あたりが煙に包まれた頃、少し離れたところで鋭い光が炸裂した。私の皮膚は爛れ、翅は灼熱に破れ、私は爆風に流されていた。若い太陽が、大地をめりめり剥がしとって浮かび上がってきたのを私は見た」
「しかしそれは夢だろう。何があろうと、それは単なる夢ではないか」
「私は夢を見ていた。しかしこれは現実になる。私の翅にいくつもの雫が、ジャングルの掻く汗が伝っている。この楽土も消滅する」
「憂鬱な幻に犯されているだけだ。今晩若い血袋を攫ってきてやろう。娘でも少年でも、柔らかい肌をして、血が鮮やかな色を放つやつなら、言葉巧みに誘い出すことなど簡単さ」
「そんな饗宴はやってこない。滅びはもうそこまできている」
「なるほど、気圧は随分下がっている。飛行に適さない嵐がやってきているのは確かだ」
「私が正気を失っていると、そう言いたいのか」
「眠れ。眠るんだ。とにかく戯言に耳を貸すのは不快なだけだ」
「勝手にするがいい。この涙が、真実を語っているのだ。お前にはわからないだろう」
「よし、賭けをしよう。そんなことがあると思うなら、この先に広がる迷宮へ逃げ込むことも辞さないだろう。冥府に赴き、そこに漂う蝶を一羽捕らえてくるのだ」
「お前こそ夢を見ている。そんな御伽噺を信じているのか」
「それさあれば不老不死が適うのだ。しかも、この呪われた毛むくじゃらの血に飢えた体を脱ぎ捨てることができるわけだ」
「わかった。それなら私が採ってこよう。そしてお前が若い太陽に灼き殺されるるのを見届けようではないか」

 そうして彼は洞窟奥へと飛び去っていった。私はそれから西に傾いてもなお昼明かりの届かぬ縦穴へと地下道を抜け、振り子状に揺れるいくつもの蕈のような人の骸を眺めて催眠をかけ、夢の階についた。その夜はこうしているうちにやってくるはずだった。私はそれから夢のなかで骰子を転がし、女達と賭けに興じていた。こうでもしていなければ、いつでも悪夢を見ることになるのだから、まともに眠ることもできないが、催眠さえ心得れば、好き勝手に桃源郷でもバベルの塔でも作り上げることができる。神を恐れる必要などない。なぜなら夢では神同然なのだから。

 私が次に目を開いた時、月へ向かって鋭く聳えいていた岩にこの身を貫かれていた。突然のことで私は混乱していた。強大な風の力に押し流されたのだ。無我夢中で翅を開いて、転落を防いだつもりが、裏目に出たのだ。嵐はまだきていない、月は煌々と、我が呪われた血を群青に照らし出している。まるで宇宙が流出したみたいだった。そして私は身動きもできないまま、何があったのかを知ることになる。数分もたたずして、夜空が消えた。南から都市の方角へと巨大な火球がゆらゆら漂っているではないか。私は愚かにも信じなかった、彼の夢を。彼は昨晩、黎明とともに催眠をかけなかったのだ。そして悪夢を覗き込んでいた。それがなぜ悪夢と呼ばれるのかを、私は深く考えてこなかったが、今ようやく理解した。

 そして若い太陽が、夜の闇を拭い去り、私の暗黒の肌をしつこく焼き続けた。私は串刺しにされ、そのまま黒焦げになろうとしていた。まるで餌食だった。私は若い太陽に呪いを吐いた。だが言葉など通用するわけもなく、私はただ激烈な痛みに耐えるしかなかった。全身を巨大な槌で砕かれているようだった。群青の血は煮え立ち、泡となって消え、ただ翅だけが、ぐずぐずになった皮膚から逃れ去るように漂っていく。それを私は眺めることもできなくなっていた。視力はほとんど失われてしまった。これ以上光に曝されれば、両の眼窩から炎が噴き出ることになるだろう。

 私は念じた。催眠をかけようとした。私の真鍮色に輝く翅が二枚、光差し込む洞窟の底へとゆっくり輪を描いて落ちていくのを。翅が、紅く輝き漂っている。そう、それは落ちてなどいない、そう気づいた時、私はその翅がさらに浮上していくのに気づいた。私の意識は日々天井に吊り下がっているので、常に逆さにできているのだ。翅は漂う。そして天に登っていく。

 彼だ。その翅は彼なのだ。名前など何千年も前に失った、呪われた吸血鬼が今、永遠の魂を得て、天へ昇ろうとしている。そうだ、彼は蝶を捕らえたに違いない。そして冥府から帰還し、この若い太陽に迎え入れられるのか。それは滅びなどではない。例え鬼畜や人間どもが、そして命ある者達が絶えようとも、それは終わりの時ではなかったのだ。そして次の瞬間、私は意識を失っていた。

 気づくと私は若い太陽のなかにいた。彼は捕らえた蝶の姿となって、美しい翅を漂わせていた。私は太陽のなかを測り難い速さで動き続ける、無数の原子の一つとなっていた。私は忙しなく、息を切らせていた。彼だけが貴族のように悠然としていた。その時彼は、何千年も前に失った自らの名前を思い出した。若い太陽は回帰線を辿り、シンガポールからイランへと到達しようとしていた。そう、王は帰還するのである。

 

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