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Germanistik, Philosophie(Aufklärung, Phänomenologie, Logik), Biologie, Musik und Kunst

Mémoire du sommeil ≠ ( Name )

固有名を与えるという行為は、クリエイションの終端から新たな歴史性が始まる時点にある。にもかかわらず、固有名が理解されるのは、歴史が完結した後である。作者にあってもそれは同様である。名付けという行為が作者や制度決定者に与える特権性は、名付けという行為によって何らかの存在を浮かびあらせること、そしてそこから何か歴史的に新しいことが始まることを告げることができるという点にこそある。それが固有名をもつということは、それがそのような名前を持つ必然性とは別であり、その意味でクリプキが『名指しと必然性』で言ったアプリオリかつ偶然な条件なのである。

しかし通時的に見れば、その固有名の意味は変容し、予めその名前を持つことが必然であったかのような「アウラ」を帯始めることになる。この時「アウラ」を帯びるのは事実目の前に存在している、唯一無二の物体ではなく、名前の方である。私たちは唯一無二の小石が無数に転がる海辺にあっても、あるいは海原に浮かぶ反射の数々を眺めても、それらを区別することなく踏み締める。しかしそれに固有名があったならば、私たちはそれを無視できない。一つ一つの煌めきに名前を与えることは、この世界にあって無用なことに思われるのは、私たちが決してこの世界の創造者たり得ないからだと無自覚にも感じ入るからかもしれない。少なくとも、小さな虚構や新たな人間関係を作り上げる時には無邪気にも遊ぶことのできる名前は、その指標性の単純明快さとは別に、特段に強烈な輝きを持つことがない。どこまでも神経を鋭くして初めて産出されることが可能となるような名前は、ただ所与の無尽蔵さに直面して初めて与えられることになる。

だからこそ、夢のなかで初めて遭遇した人間たちには、未だ固有名が与えられることもなく、目覚めた後に強烈なおぞましさを帯びたまま記憶に残り続ける。お前は誰なのか、に答えることのない架空の人物。しかしそれが架空であるなどと誰が保証できるのだろうか。自らの意識下に滑り込んでしまった前存在的な人物は、いかなる名前をも拒否することで、私の記憶のなかに紛れ込んだ砂粒となる。

固有名と文学作品について、寝覚めから『固有名の詩学(前田佳一編著、法政大学出版局、2019年)を読みつつ考えている。どれも優れた論考で、一つ一つがうまく関連しあっていると思ったが、私が特に新奇性を感じ、気になった論文は、

山本潤「作者と名前」
宮田眞治「ホフマンとディドロ
前田佳一「ウィーンの(脱)魔術化」

山本先生の論文は、概念使用に違和感のあるところもあったが、実に示唆に富んででいた。特に中世叙事詩のプロローグとエピローグの機能を固有名に着目して簡明にしたのは、とても参考になった。
宮田先生の論文は、専門の時代が重なっているので新奇性は薄れるものの、図式的に整理された多くの知識が少なからず参考になった。
前田先生の論文は、バッハマンの「魔術的地図」の概念を、戦後ウィーン文壇の様子や政情とともに興味深く紹介してくれて参考になった。とりわけドーデーラーについては本邦ではほとんど紹介されていないので、その意味でも貴重だった。

固有名の詩学

固有名の詩学

  • 発売日: 2019/02/20
  • メディア: 単行本
 

うまく眠ることができない日々が続いていて、私の表層に存在していた意識の様々な境界が解けようとしている。名前の混乱はもっとも頻繁に起こる現象であり、次に一般名詞、そして続いて文字に与えられた鍵としての「呼びかけ」が次に崩壊する。その限りで、私は目の前に存在しているものが本来保有していたはずのコンテクストを徐々に失い始めることになる。というのは、名前を通じて惹起されるのは、そのようにして対象化された事物の表象のみならず、夢のなかで遭遇する未知の偶像の数々と同様の、記憶に紛れ込んでいる無数の砂粒の小波もあり、それ故に私のなかに固有名、あるいは名前一般がもたらすものは、私に未だ知られざるところのものばかりなのである。

固有名はパラテクストの一種なのかどうかは、対象の自己関係性や、私との関係のもとに成立しているのかなどの分類に従って検討される必要があるだろう。名前がどれほど空疎で、どれほど偶然的なものであれ、名前がもつ音韻の先験的な効果は、押し寄せてくる波のそのものであり、私が名付けられた瞬間からその海嘯が立てる轟音は、少しずつ衰微しようとも、耳鳴りとなって響き続けている。それを交換したり捨てたりということは、単なる「社会的身体」に結晶しているものだけではない。それは私が聴き続けてきた音響世界を一変させてしまう。それが人格性に反響する時、私が私として誰かの目の前に立つことができる。

Demonstrativaの問題がここにある。私はここでいつも立ち止まる。

最後に江口先生の論文「『ジーベンケース』における名前の交換」から、ジャン・パウルの『ジーベンケース』の引用を孫引きしよう。

ハインリヒは考えた。彼が数日の後に、捨てられた名前とともに、小さな小川のように世界の海へと落ちていき、そこで岸もなく流れて、見知らぬ波へと砕けていくのだと。彼自身が、彼の古い名および新しい名とともに墓穴の中へと落ちていくように、彼には思われた。(48頁)