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Germanistik, Philosophie(Aufklärung, Phänomenologie, Logik), Biologie, Musik und Kunst

post-truth (1)

今更この語を蒸し返すのもどうかとは思うのだが、Covid-19の加速度的な変異と拡散に伴って、この語はメディアからはあっという間に姿を消してしまった。トランプが断末魔のような不正選挙キャンペーンを展開しながらも、国会突入という現実への干渉によって彼らの妄想が妄想であることをやめてしまい、その時点で法という厳然たる事実に陰謀論は屈したかに見える。無論そんな にことは単純ではない。第一、法とは別に、一層過酷な現実なるものを突きつけてくるのがCovid-19であり、このウィルスやそれに対抗するワクチンをめぐっても様々な陰謀論が飛び交っているものの、そうした陰謀論は紛れもなく貧弱化した妄想によって生み出されており、実しやかな噂として伝染していくというより、タマホームの社長のように伝令したり、喧伝したりといった側面が強くなっている。それを信じることに何一つ面白みもなく、そんな戯言に付き合っていれば大切な人を失うかもしれない、あるいは自分が死ぬかもしれないのだから、実に醒め切った態度を多くの人は取ることができている。

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 最近の陰謀論は受益者を照らし出すことで策謀のカラクリを暴く、という側面が退潮仕切って、単に自分たちの都合の悪いものをねじ曲げた解釈と差別扇動的な言葉で覆い隠そうという程度のものばかりなのである。この点については大いに異論もありうるだろう。しかし虚構が客観精神として現実を拡張することも、連帯を作り出すこともどうも困難になっているように思われるので、それが裏返って陰謀論の貧弱化にも現れているように思えるのだ。

 ところでどうしてそのような妄想が貧弱化することでpost-truthも生じたところで不思議ではない。結局人々は解釈論争程度に収まっておくことで、決着をつけることをやめているとも言える。全く別の現実を生み出すとかそういうことに興味がないのだ。

 post-truthが単なる解釈論争ではないとも考えることはできるが、もう少し踏み込めば、同一のエビデンスに関して、解釈論争を可能にする何らかの別の色眼鏡が存在していること、つまり妥当な解釈のあり方を覆すことができると考える何か決定的な認識論的な陥没地点がある。

 とはいえそれはスペクタクルの行き着く先だったのだろうと思える。ギー・ドゥボールは『スペクタクルの社会についての注解』で黙示録的なトーンで自らの古典となった本で提示した理論を発展させた。そこでは公然たる秘密や反駁できない虚偽といったものが統合されたスペクタクルの社会の特徴として挙げられているのである。

 彼がこの本で繰り返し強調しているのは、存在するとされるもはやそれ以上語りようのない何かに、人々は取り憑かれているということである。それはたえざる技術の更新やメディア環境の拡張によると考えるのは全く正しいように思える。例えばなぜVRとかARはRealityという言葉にこだわるのだろうか。私にはそのようなこだわりがとても馬鹿らしいように思える。

 ところで、そのような物神崇拝に関してはラトゥールも論じている。あるいはマーク・フィッシャーの亡霊論の辺りを絡めてさらにメモを作成したい。