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Germanistik, Philosophie(Aufklärung, Phänomenologie, Logik), Biologie, Musik und Kunst

李開復『AI世界秩序』

ビル・ゲイツはもう終わりだろう。というより彼に代表されるようなシリコンバレーの創造性の神話に取り憑かれたカルチャーが、直に衰退していくことになるかもしれない。みてみろ、深圳を。いや本当に見るべきは北京の中関村ではないのか。いずれにせよ深圳だって中関村をモデルにボコボコできた街の一つだ。中国全土にあちこちそういう街がある。アメリカよりもはるかに人も技術も資源も資金もある。だがそれ以上に、息つく間も無く競争に没頭している。

グーグルの中国支社を取り仕切り、その後シノベーションを立ち上げ中国国内のVCに経験と知識、エネルギーを流し込み続けてきた李開復(カイフー・リー)がその著書『AI世界秩序』の内容をまともに受けめる限りでは、そう考えないわけにはいかない。

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確かにICTの時代に入るために必要なものを揃え、そのために遺憾なく創造性を発揮し、その結果巨万の富を手に入れたものたちが、起業家であれ技術者であれ西海岸に立派な街を作り上げていることは否定しようのないことだ。しかし基本的にハードワークを美徳にしている様に見えても、彼らは今になって盛んに「怠惰の権利」や「マインドフルネス」といった数々の言葉を弄びながら、そうやって創造性を発揮し続ければ自分達のスタイリッシュなプラットフォームが労せずとも無数の金を還流させてくれると信じている。だがそれが単なる倨傲でしかないとしたら?

確かに創造性を発揮するためには休息が必要であり、遊びに見える事柄に熱中することも役立つ様に思われる。だがそれは所詮経験則でしかない。仮に心理学的にそのことが肯定されたとしても、その創造性は彼らが賛美する多分に経済的な、いやもっといえば金の匂いがふりかけられたイノベーションというものとは全く異なるだろう。

ICTの分野において、中国市場でアメリカの巨大企業が失敗してきたこの十数年の流れを振り返りながら李が繰り返し指摘するのは、シリコンバレーのエリートたちの特権意識、自分達の優れたユニバーサルデザインがどの地域のどの市場でも通用しないはずがないという妄想、中国の様に違う制度や文化が根強く残る地域における失敗の原因をそうした制度や文化の特殊性に求めて実際には何十億というユーザーを手放していることである。

ベッドルームや屋根裏部屋から始まる夢見心地な世界征服の子供じみた妄想がシリコンバレーの精神性であり、中国国内の市場で成功しているVCの精神性は蠢く無数の敵たちと血みどろの戦いをくぐり抜けてきた深刻なまでのリアリズムである。そして李が繰り返し指摘するのは、中国国内のVCが徹底したリアルな世界におけるマーケティングと消費行動調査を、「並行宇宙」に反映させているということであり、そのための計り知れない努力と勤勉である。これが李の見立ての一つである。シリコンバレーは政府や顧客のせいにしてやるべきことをやっていないのだから勝てるはずがない、自分達のルールがより洗練され、より普遍的であり、より分別のあるものだから、それに従わない野蛮で二流の世界とは関わりを持たなくてもいい、そう思ってさえいるだろう。李の言葉を聞いていると思わされてくるところもある(そして実際昨今目を覚ました冷戦の亡霊が一方で知らせるのは、西側諸国のその様な意識でもある)。

そしてそれは経営上の戦略を大きく分けることになり、実際に計り知れない利益と損失という結果をもたらすことになるかもしれない。それは今後一層その傾向が強まる。特にR & Dにおける「規模の問題」について示唆的な記述が散りばめられている。

李が語るのは単に文化的な違いだけではない。その辺りの話はむしろどちらかといえばどうでもいい部類かもしれない。この本の最も重要な指摘はもっと後にしっかり書かれている。興味深い本であるのでぜひ読んでみてほしい。

とはいえ、ここであえて文化的な話をしたのは、結局のところ勤勉とか怠惰とか、そういったことはその後の経済史の行く末を決める重要な要素であるのか、という実に古典的な経済史の問題に幾らかの示唆を与えてくれることを期待しているからである。そしてあたかもこの問題にはyesと答えざるを得ない様相を呈しているかもしれない。

現在進行中の出来事を見る限り、ある程度成熟し、泥臭いことをするのが嫌になった創造性の神話の信奉者たちは、挙句の果てに技術ユートピアを信じる楽観論者に部分的には進んでいき、部分的には自分達の特権を保持し続けるために技術ユートピアではなく、数少ない労力で最大の利益を生み出す、つまり勝者総取りのシステムを着々と作り上げようとしている。だが他方で、異なる勢力がアジア最大の国から生まれ、育ち、今やその様な神話の信奉者を凌ぐことになる。

だが、いずれの道を辿ったところでそれほどに相違する世界がやってくるのか。

視点を変えてもいいだろう。あたかも何も知らされないまま全てを監視されている社会と、監視されていることを前提に監視されている社会と、どちらに住む方が幸せなのか、そして愚かなのか。いや、幸せかつ愚かなのか。

こうしたことを考える上で、鍵となるのは実のところ政治哲学の古典かもしれない。これについはまた。