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Germanistik, Philosophie(Aufklärung, Phänomenologie, Logik), Biologie, Musik und Kunst

雑記 May. 2022 #1

何の関連性もない雑記

  • 毎日何かしら文献を読みまとめ、さらに何かしら文章を書き、構成を考えるということを繰り返している。このなかで最も頭を使うのは当然文献を読むことであるのだが、しかし文章を書くというのは最も困難なことでもある。これは身体との相談でもある。さらに構成を考えるとなると、書き続ける中からしか出てくることはない。身体がうまく応え、粘り強く動いてくれない限り構成はうまくいくことがない。もちろん範型に沿ったライティングの技術というものはある。しかし書き始めるにあたって、あらかじめ書くべきことを全て調整することはできない。そういった調整はたいていが網羅的になりすぎる。他人が文章を読むときの直線的な思考の動きに自分も合わせなければならない。そうなると実際に書き始め、書かれたものに従いながら次に進んでいく。そうやって視野を狭めることで、誰でも一筆書きの思考を辿ることができる。ほとんど大腸菌の運動と変わることがない。だから構成は時に無思考の産物であることがある。それどころかたいていが無思考の産物である。だが仮に対象の間に何らか事実的な関連性があると信じることができるならば、無思考の構成が反射的に整然とし、まるで結晶化することになる。そうやって文章が出来上がるまで、探査しなければならない。うまくいかなければランダムに向きを変えてもいい、うまくいったらラチェットをはめてやればいい。
  • 今日は恐るべき一日であった。プロ野球に関してである。とはいえ、スポーツ観戦というのは明日には忘れ、数年後、あるいは数十年後に思い出すものだ。
  • 18世紀から19世紀にかけて学問は分野間での闘争が少なからずあった。とはいえそうやって分野が確立したのだと思うと、常に中間領域に置かれていたような事柄は、思弁に収束してしまう。骨相学のような学問は今や見込みのない擬似科学のように思われているが、しかし骨相学は単純に頭蓋骨を観察しているわけではなく、脳の部分部分がどのような機能と対応しているのか、そしてそのような「人間的」な行為がどのような神経基盤を持っているかを、測定可能な数字から推し量ることを試みていた。そのような発想は、脳が魂の座であると理解されるようになって(18世紀半ばまでに十分理解されていた)自然に思える。だが計測によって何をしようとしていたのか。骨相学は形態的特徴が能力と比例関係にあるかを理解しようとしていたのである。これは今でも心の哲学神経科学の中に一定程度存在している見解であるか、あるいは一つの立場を占めているといっていい。ところが骨相学が結局思弁で終わったように、何らかの比例や神経相関を見出すことは困難な思弁かもしれない。いや、そうではないと主張することはできるし、実際そのような実験的探究が成功裡に終わることを願ってもいる。第一、当時とは生物の理解も技術的状況も全然違うのだから。だとすれば、ある意味では思弁が思弁ではなくなるということを期待していいということだろうか? 否である。ここで注意しなければならないのは、思弁が経験と対置される時、思弁とは理論と似ているし、しかし異なるという点である。つまり理論は経験的に充実されるべき均一的対象を作り出してしまう。しかし思弁はそのような要請をしない。それどころか差異化を促進し、多様な経験を時に支離滅裂なほど一層多様化させることもあるだろう。だが、それこそが現実を作り出すことがある。そのような過程として、リンネ以前、そして以後の分類体系の構築過程を見ていく必要はあるだろう。
  • 今日は暗渠について考えもした。また、昼間はノイズ音楽をずっと聴いていた。子供たちの嬌声や動物たちの鳴き声が入り混じっていた。暗渠ではどのような声が聞こえるだろうか。そこには光は当たらない。ともすれば外気に触れることもない。埋設だけとは限らない。
  • 研究文献とは別に、国木田独歩や山田美妙を青空文庫で少し読みもした。