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Germanistik, Philosophie(Aufklärung, Phänomenologie, Logik), Biologie, Musik und Kunst

随想 #1

前回李の『AI世界秩序』について簡単なメモを作成した時に、たくさんの論点が頭をよぎっていったため、さてどこから書こうかという思いに至ったのだが、断片的であれ書こというわけで以下端書を残していく。

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そうして考えていくうちに突発的に思い浮かんできた一冊の本があり、差し当たってこの本を始まりにあるとしておく。

マーク・フィッシャー『資本主義リアリズム』セバスチャン・ブロイ/河南瑠莉訳、堀之内出版、2018年(原書は2009年)。

この本は翻訳が出版された2018年2月にすぐに読んだが、その時から印象的であった。この本が十分に何かを説明するというわけではないのだが、私に動機を与えてくれた。昔書いたベルリンの都市化と文学の関係についての論文でも考えを整理する際にヒントを与えてくれた。

それから一応李の本でも触れられていたのもあって、見落とすことができないのは

エリック・ブリニョルフソン/アンドリュー・マカフィー『ザ・セカンド・マシン・エイジ』村井章子訳、日経BP社、2015年(原書は2014年)。

また、こうした本とともに

布施哲『世界の夜--非時間性をめぐる哲学的断章』航思社、2022年。

www.koshisha.co.jp

この記事、そして多分これからの記事の少なからぬ部分はこの本に示唆を受けたり導かれたりしている。適宜引用もするつもりである。

それから比較的最近の二つの重要の権威主義研究

Steven Levintsky and Daniel Ziblatt (2018): How Democracies Die. What History Reveals About Our Future. New York (Penguin Books) 2019.

Anne Applebaum (2020): Twilight of Democracie. The Seductive Lure of Authoritarianism. New York (Anchor Books) 2021.

などである。その他の研究や古典などについては適宜提示する。

兄弟関係

近代化の過程に見られる特有の権威主義体制があると言われる。軍人上がりのフアン・ペロン(Juan Perón, 1895-1974)がアルゼンチンで敷いた政治体制はその格好の例として取り上げられることがある。確かに世界史を、前近代から近代化を経て現在「主流」の民主主義体制へと移行する地球規模の変動としてみるならば、近代化が多くの地域で権威主義体制をもたらしてきたのは確かである。とはいえその理解は、近代化という流れがあることをまず前提とし、そして権威主義体制は過渡期の体制に過ぎないということを次に前提としている。もちろんこのような前提も、このような図式的な歴史認識ももはや有効ではないことは明らかである。第一、ヨーロッパ各地で権威主義体制が現れた事実自体が、歴史に逆行しているという批判など傍において、その批判が拠って立つ基盤すら掘り崩しているのだから、そのことに自覚的にならない限り、つまり一種のホイッグ史観の変奏を放棄しない限り、議論が前に進むことはないだろう。

だが問題はさらに続く。近代化の過程、それは社会学的には産業化の過程とも言える時期を経て、民主化へ向かうという図式は、同時に資本主義と民主主義の切り離し難い関係を前提としてる。確かに民主主義はそれ自体政治学的なカテゴリーであるにもかかわらず実態は資本主義という宿木に締め上げられ、覆い尽くされてもいる。民主主義は自由主義的な経済思想を是とし、そのための政治学的な形式化として民営組織の多くが営利活動や非営利活動を展開するためのガバナンスを担うという形へ移行していく。だから自由市場こそが経済発展を健全かつ効率的にもたらすのだという一般通念が、同じ歴史の筋書きを提示している。とはいえ、そしてそれは自由市場の台頭を西欧の台頭と統治する、一種の例外主義的ホイッグ史観に由来する教科書的理解に過ぎない。

国家の介入が経済発展において必ずしも非合理的であるわけではないということを、むしろいくつかの歴史の事例は物語っているように思える節すらある。そうした視点を全面に出しているのが

また、Erik Reinertは自由貿易と自由市場が物質的豊かの水準を国際的に均質化する大きな力になるという古典派以来大して疑われてもこなかった前提を強く批判している。

重要なのは、権威主義と民主主義という対立は、実際のところいくつかの対立を包括していると理解されうるということである。それは結果的にいえば、ラクラウのラディカル・デモクラシーの両面的な可能性を投影したものに過ぎないように思えるのである。

そもそも権威主義(authoritatianism)という分類概念について論じる際に必ず参照されるのがホアン・リンス(Juan Linz, 1926-2013)である。リンスはドイツ人の父とスペイン人の母の間に生を受け、ボンで幼少期を過ごしたのち家族一緒にスペインへ移住し、成長してのちマドリード・コンプルテンセ大学で経済学、政治学、法学を修めた。彼は1950年にはアメリカに渡りニューヨークでドイツの選挙制度に関する博士論文を著す。

言うまでもないが、彼が政治学を学び始めて以来、またその後1978年に主著『民主体制の崩壊』で権威主義体制の特徴を論じたこの間、彼の故国スペインはフランコ体制が敷かれていた。

土地や資源に関する権利についてどのような立場をとる体制か、つまり拡張主義ないし覇権主義か国際協調主義かという対立ということになるだろう。確かにこれもまた雑駁な話ではあるのだが。いずれにせよ、覇権主義はしばしば権威主義的であるのは事実なのだが、だからと言って前者は国家予算の立て方に大きな前提を作り出してしまうので、それがどうにも知識経済が市場に大きなエネルギーを注ぎ込む時代にあっては、不都合であるということになるだろう(そして、この不都合さを建前にグローバル・ヒストリーは安穏として覇権主義の歴史を経済史によって中和してことを済ませようとしているようにすら見える)。

遡ればアダム・スミスが『国富論』で展開した自由市場の原理に、重商主義批判が含まれていた。とはいえそこでスミスが言いたかったのは、領主や王が金銭を溜め込むことの無意味さであり、市場や民営組織へ投資したり法制度を整えることに注力すべきであり、そうすれば自ずと富は増大するということだった。

つまりスミスは経済成長を促すように国が関与する方法について論じているのであって、またそのために一種のレントシーキングも問題ないとさえ思っているように見える。もちろんこの点についてはより慎重な吟味が必要になるし、十分に検討もしていないので誤っているかもしれない。

こうしたことを検討する上で、価値論、価値の源泉に関する議論と、価値の体系、つまり一種のイデオロギー的な問題についての議論が常に交差しないまま放置されてきたことに気をつけなければならないように思う。

人的資本

先日Twitterで一つのニュースが流れてきた。

https://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2022/05/18-29.php

この記事はフィンランドが義務教育を18歳まで延長すると方針を決定したというニュースを伝えるものであるが、実際の制度開始は去年である。注目すべきはこの記事にある以下の箇所だろう。

狙いはさらなる教育の平等、そして国民総「高スキル人材」の実現だ。社会からの脱落や孤立化を防ぎ、労働市場でも「誰一人取り残さない」を目指す。

「高スキル人材」というのは普通、どんなスキルをも包括し、そのスキルの熟練者のこというわけではない。当然ながら求められるスキルとそうでないものがあり、特定の仕事の排除を暗示するビジネス用語である。となれば、この教育政策の決定は、今後のITを中心とした経済発展を見据えたものなのかと一瞬思わされてしまう。

ところがフィンランドでの義務教育年限延長の政策議論の経緯を瞥見すれば、本来は別の理由から提言がなされていたことが明らかとなる。

渡邊あや「フィンランドにおける義務教育年限延長に関する議論」『国立教育政策研究所紀要』

フィンランドにおける義務教育年限延長に関する議論 : Helsingin Sanomat紙の記事の分析から (特集 諸外国における中等教育段階の学校制度改革の背景と現状) | CiNii Research

この短い概観によれば、議論の嚆矢となったのは、フィンランドの民間シンクタンクが提出した義務教育を経たのち行方不明となった若者たちについての統計調査だったという。この調査によれば、教育や職業訓練を受けるわけでもなく、就労もせず、また福祉サービスを受けるわけでもない社会から疎外されている若者(15〜29歳)が、その人口の5%を占めていたようだ。そうして労働省が具体的に対策を打ち出すことを決めたのが2013年6月中旬であるという。

こうしてみると義務教育年限延長の議論は、実施の段階までに相当に熟しされていることがわかる。結局のところ義務教育年限を延長し、就労につながるスキルの教育までを無償(その間の生活費支援を含む)で提供することで社会的疎外のリスクを下げようという試みが、先に提示したニューズウィーク記事の「高スキル人材」という話につながってくるのだろう。だが新聞記事の方はいささか誤解を生むだろう。

社会的疎外を防ぐことは、福祉の最も根幹にある実践的意義であると言っていいだろう。社会的疎外が健康寿命に悪影響を及ぼしたり、そもそも自殺リスクさえ高めてしまうことはよく言われることであり、フィンランドの教員組合もそのような他分野にわたる調査結果から義務教育年限を延長するよう要請したということがわかる。

これは若干異なる問題であるが、このような義務教育の延長が国内の労働者のあり方や市民生活における幸福度などにどのような結果をもたらすかを見ることができれば、どこまで手厚く教育機会を与え続けることが、その効果を十分に生かし切るかという議論にも発展するだろうし、これ自体とても興味深い問題だと思う。とはいえ義務教育がそもそも健全に機能していること、そして延長してもなお機能すると十分期待できることがそもそも前提とされなければならない。その結果がどの国どの文化でも同じように現れる保証は一切ない。むしろ日本では全く期待できそうにない(これはあくまで改善すべきだといっているだけである)。

 

経済主体?(以下の大半は別の箇所に走り書きしたものを修正・転載)

主体性というものに疑念が呈されて以来続く権力論が自ずとセクシュアリティからフェミニズムに至る一連の欲望と生殖の論争場を席巻した結果として、欲望機械=主体性を論じはじめ、動物的行儀よさ、美的享楽の戦略が主張する欲望の根源と現生的満足の結合した現象主義が反動として現れた。

その現象主義は主体性を主権とすり替えているように思う。

そして主権はこの時、巧みに法的自由(非奴隷状態)が物質的・身体的な充足のために能力や暴力を行使する正当性を示す。しかしこれは経済的自由であり、この種の主権形態がドメスティックな領域を支配したことで生じた社会問題が忘却されている。

病理の根源に一切触れることなく病人をうまく生かそうという臨床上の配慮は、欲望は結局充足しないという事実に目を瞑り、擬制的な代替不可能性に自我を嵌め込むドメスティックな条件を、そしてあたかもカテゴリカルな義務として特定の対象を消費し、どうしても満たそうとする執念を放置している。

それはアイデンティティポリティクスをすっかり換骨奪胎し、自己規定の源泉となる「無意識」へと、欲望充足的な経済活動よって社会という人工巣穴から栄養を注ぎ込む。しかしこの時単にリベラルを装ったマキャベリストは首尾よく超越論的主体性のような自律的根拠や自然哲学的な始原を溝に捨てている。

結局のところ、いかなる議論も「私らしく生きる」といった事柄が欲望の対象や欲望を満たす手段に関する選択権をもつ者という風に解釈されるような議論は全て、忘れることは悪いことではないという逆立ちしたフロイト主義者なのだ。なんでも欲望ならそれでいいじゃんとなるだけだ。

自分はこうでありたい、こうしたいのに社会はそれを受け入れない、という問題は血生臭いものだ。だからそれをリベラル的寛容で可能にしようというのは、もう歴史主義的ではない。そして相対化されない足場を、もはや外在化され固着した欲望に設置することでかえって自己を支配させる。

私の欲望は狂っていないと主張する慎ましさと大胆さ、そして従順さ。自分の欲望にアイロニカルになることなく、真っ直ぐ表現できるような社会は実に寛容かもしれないが、それはまるで巨大な施療院であり、市場はまるで宗教権力を代表する乳母さながらである。

私はそのような自由な欲望表現が間違っていると言いたいわけでもなければ、「異常」なるものを許すべきではないと言っているわけではない。むしろそのような自由な欲望表現が首尾よくマッチングされる市場が実現され法的にも問題なく存在しうると考えることができる、その安楽な発想に驚かざるを得ないのである。

今日食べたいものがわかる人は、よほど素直なのである。今日寝たい相手がいる人は、よほど純粋なのである。どれだけ失望しても次を選ぶことができるという無数の機会。失望する前には次の選択も可能な豊富な市場。明日は明日のトライアル。

恐るべき透過性。だがそれは一方的な透過性にすぎない。あなたは自分の中がとても明るく自分には見えていると思うだろう。だから外から丸見えなのだ。逆にあなたが自分の中がとても暗く自分がわからないと思うだろう。その時外のことはよく見えるのだ。これは例えばうつ病患者が昼食を決定するのに異常な時間がかかり、その過程で死への欲動が優って行くことに近い。本当のところ自己の身体が欲望を自己生成的に生み出しながらも欲望の対象が喪失されている限り(それは欲望が本来的状態に回帰しているためであるが)、全く持って、この世は生きるに値しないのである。

 

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