今年よく聞いた音楽など
2024年、それからそろそろ2023年も振り返りたいとことである(2023年を振り返るのはとても大変な時間がかかることなので、まだまとめられないでいる)。
とりあえず振り返るにも色々な視点があるが、最も簡単な部類から手をつけることにしよう。そうして芋蔓式に他のことも振り返ることができるようになるだろうと期待して。
今年は音楽をよく聞いた年でもあった。それはたくさんの仕事をこなさなければならなかったためでもある。とにかく一人で山積みの課題と、学生たちと、過去の人々と、時に自分自身と付き合い続けなければならなかった。それは確かに幸運のなで呼ぶことのできることだ。だが身体のあちこちに痛みが出てしまう、特に脳と心臓のふたつの臓器は疲れ果てただろう。
そういう時、温かい飲み物――できればコーヒーかミルクティーがいいが――を用意して、音楽をかけ、本を開く。そんなくつろぐ時間が必要でもある。もちろんそれすら叶わないほど疲れてしまえば、ケアなんてものは遠ざかってゆく。手放すものを手放して横になり、Twitterを開く。そんなふうに無為な時間を過ごして、少しでも動けるようになるのを待つ。人生は隙間が増えていき、不本意なままの仕事を置き放しにして、虚しくなってゆく。おのれの人生を台無しにするのはとても簡単だ。こなしきれないだけの、ときにモチベーションの伴わない仕事を抱えてしまうこと。これで終わり。お前の人生は搬送中に粗雑に扱われた荷物を包む段ボール箱のように情けない姿になる。
それでも、生きるには金がいる。そういう現実を重視することはしない。だがこの現実は否定することもできない。軽視すべきものが、それでも足元を揺るがす大事でもある。私はただ上を見ていたい。ただ自由にいたいだけだ。
音楽は結局どんなときにも人についていくことができる。音楽を聴くことだけはどんなときにもできる。どんな音楽を聴くかはその時々に応じて変わってくる。音楽を聴くことさえできないとき、ひどく落ち込んでいる時が確かになかったわけではない。だが音楽さえ聴くことができない時には、もう手の施しようがない。そうなる前に引き返そう。そんな場所に居続けるべきではない。そんなことをし続けている場合ではない。そんな人々と一緒に過ごすべきではない。音楽の流れている場所に行くべきだ。思う曲をかけるべきだ。音楽を一緒に聴くことのできる人々と過ごすべきだ。
2024年は始まった時点でまだドイツにいた。新年のコンサートではStrauss IIの曲がよくかかっていたのを覚えている。そこからAvicii、Taylor SwiftのDon't Blame Me、LANYのアルバム、それからColdplayのViva La Vidaをよく聞いていた。なんとも懐かしいラインナップであってなんら新奇性はない。もちろんこの時はまだ一人ではなかったので当然かもしれない。他にもDeutsche Gangstarappを探し始めていたのもこの頃だ。

それからBrahmsのWaltzをよく聞いていた。夜二人で食事を終えて、私は片付けを終える頃にお茶を入れていた。そのお茶を一緒に飲むのだが、その時BrahmsのWaltzをよくかけていた。GothaのあのこぢんまりとしたKücheで過ごした二人の時間がとても幸せだった。ときに彼女はアイスクリームを食べつつお茶を飲み、ときに自室に戻って作業をしていたので、そこにお茶を届けるだけの時もあった。そんなときには私もKücheで仕事をしていた。
それからAlcestのSpiritual Instinctをよく聴いていた。Alcestのライブに行くかどうか迷っていた時もあったのだが、結局それは流れた。

このアルバムは本当に美しい。
ドイツ滞在も終わりが近づき、この頃はよく二人で町を散策したり、トラムで最果ての駅まで行ったりして遊んでいた。切ない遊びだ。そこでしか見られない光景を見てきたはずだ。あれこれ駆け込みで試したりもした。マルシェでも積極的に買い物をした。
まだその頃から一年も経っていないことが信じられない思いだ。だって、生活は全くかわってしまっているのだから。日本は本当に夢のない場所だ。この時間だってかけがいがないではないか、そう思いたいところだが、ドイツでの時間があまりにも自分にとって大きなものになっている。2024年はとても辛い一年だった。そう思うより他ないのである。
3月に帰国したあとはしばらく音楽を聴くことすらままならない時間もあった。ただ確かよく聞いていたのはBorisのGenshoだろう。

このアルバムがなければ帰国後のどん底を潜り抜けることはできなかった。その後立て直しつつ非常勤生活が始まったわけだが、その現実に体を浸していくこともできなかっただろう。
そこからどういう生活をしていたのか、にわかには思い出し難い。一人の時間が続いた。事情があって彼女は一時帰国をすることにもなり、そのまま私一人での生活に入った。その中で発表をひと月の間に3本行い、翻訳関連の仕事を開始し、非常勤にひと段落つくと体調(メンタル)を崩し、論文を書き、翻訳をし、翻訳関連の仕事をし、原稿を書き、原稿を書き。ひたすら授業をし続け。
そういう時間をどのように埋めていたのか。
Mimi Webbは2023年にもAmeliaを出しておりそちらを挙げても良かったのだが、あえて聴く回数が増えたのはこちらだった。どんなときに聞いていたのか、今ではよくわからないのだが、人間狂っているときになぜか執拗に聞いてしまう音楽というのもあるもので、出勤中などに車で流していたように思う。

AnnenMayKantereitの2023年のアルバム、Es ist Abend und wir sitzen bei mirは思い出深い一枚となった。このアルバムに収録されている曲はどれもとてもクオリティが高い。それは間違いないが、Tommiは特に回した。歌詞を覚え、車の中で口ずさんでいたレベルだった。
これは職場から帰宅時によく聞いた。もちろん秋学期に入ってからのことだ。
夏休み中、運動を始めて、運動後にシャワーを浴びたり、シャワーから出た後にコーヒーを淹れてくつろいでいたときによく流していた。ただtiny deskで自室から行ったようなあのライブ音源が一番いい。
夏休みから秋にかけて、運動時によく聞いていた。Nothing, Nowhereも基本ライブ音源が好き。
MaybergのSpiegelbildも切なくてよく口ずさんでいた。ライブ音源がとてもいい。
出勤中に少しでもという時、Against the Currentの2021年のfeverは選択肢だった。
Bad Omensについては色々書きたいこともあるのでまた細かいことは。

とりあえず2024年にでたアルバムは他にもいくつも聞いたけど、現時点でベスト、と昨日なった。
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このアルバムを聴くと少しでもドイツに帰った気がする。
2024/07/21
今日は朝から洗濯掃除、炊事をしながら、主に頼まれた原稿のチェックと、その他翻訳関連の仕事をしていた。
その他の仕事はそれほど多くは進まなかったが昨日までに済ませるべき授業関連の仕事は済ませているのでゆったりと時間を使うことができた。
明日最後の授業が終わったらそのまま一気にエンジンをかける。
2024年7月20日
またもいつ更新が止まるかも分からないままブログを再開しようと考えている。基本的に単なる日記として書くつもりであり、数行でもいいから書いておこうと言うところだ。
しかし言葉は溢れる。いつも少しだけを書こうとして、いつまでいつまで経っても書き終わることがない。これはおしゃべりだからか、それとも本来的に途切れることのない言葉の戯れに、人為的に切れ目を入れる、単に疲れた、飽きた、なんであれ心理学的な切れ目を入れることに一種の誤魔化しや嘘を感じることになるからか。いずれにせよ、言葉で表現されるものは常に言葉に委ねざるを得ない部分に対し、自己を均していく必要がある。だから委ねることにうまく行っている時ほど、言葉に切れ目など現れてこないという現実に、どれほど疲弊しようとも、どれほど聞き手や読み手をうんざりさせようとも、口を、手をついて出てくる言葉を中断させることができない。言葉の前にすで私はなす術がないのである。
だから段落を作ろうとすれば、たちまち言葉を一度氷結させてしまうしかない。そしてそれが眠っている間になんとか形を作り出そうとする。どれほどまとまっていて直線的に思考されている様に見える文章であっても、本来それは無数の断片的な言葉からなっている。それを撚り合わせることに神経を研ぎ澄ますことのできる人もいれば、単に頻度から、つまり慣習や他者の言葉遣いから、断片が一つの凝集物になっているにすぎないとしても、あたかも初めから人連なりの言葉や思考であったかの様にしてそれを差し出す。だがその様なものは脆く、剥がれていく。氷結されて造形されて、そうして再び自ずから生命を持つ様になる文章を書こうとするならば、それらの断片が、どこからやってきたのか、つまり先に世界の側をすっかりばらばらに分解してしまう能力を持つことが必要となる。そして段落を作ることで、むしろ世界の側に新たな秩序を生み出すのである。
日記とはまさにその様な営みであるべきだ。理想的には。日々の雑事。不意に訪れる出来事がこの身体を分割し、幾つもの時間が同時に過ぎていき、そして取り留めもない音に塗れながら、そこから私たちは自己の形成運動に取り込まれていくべきものを理解している必要がある。この時世界は自己に、そして自己は世界へ転じる。世界は結局私たちの人生を包むものである。同時に私たちの一人ひとりの人生が包みうるものである。その外側に世界はない。そして世界の外側にも自己はない。日記はそのような世界と自己の間に広がる見えざる領域の境界をはっきりさせ、その先を探っていくための方法である。そうして私たちは仮初の出来事をのみ反省的に思考するのではなく、その彼方にあるものへとたどり着くために、自己と世界の内在的関係に沿って双方の神経的な秩序を理解することができるし、提示することができる。そして世界はロマン化されるのである。
このためにはどんな些細なことであっても、どれほど隠すべきものであってもさらけ出す必要がある。生理学的にも心理学的にも、くまなく分析される。どこの腺から何が分泌されたのかさえ、私たちの興奮や不安を伝えるのに不可欠なものであり、例えば誰もが知るところで言えば、愛する人の名前を口にすればたちまち心拍が速く強くなる現象がその一つである。しかしながら行為はより重要である。何を見た、何を欲した、何を達成した、何を犯した。そうしたことは実際のところ、何を、と対象を示すことによってではなく、何をどうしたかと言うふうに表示することによって、心理学的な分析への入り口を開くものとなる。だがその細部に関して言えば、虚偽同然となってしまうほど不正確であることが常だ。この不条理を前に、因果的ではない動機と指先の震えが同じ現象として、同じ帰結をもたらすという現実にどの様な裁定をも許すことがない態度が生まれる。だが人は本当のことは常に隠しているものだとするならば、さらに精神分析に道を開く。認識できるはずのものをしていないと見ることで、分析と称した教唆の方法が問われているのである。だが実際にそこで行われるべきは認識的構造を描き出してあげることだろう。そこに些細なことが積み重なることが重要である。
だから日記ほど重要なものはない。もしもそれが公開されないことを前提にするならば、どれほど恥ずかしいと思うことも書いてしまうことができる。そしてその隠してしまうことが答えである時には、人は一旦は日記において正直ものとなることができるし、逆に隠しておかなければならないことを、自らの認識の構造に組み込むことのできない異物として保存しておくこともできるのである。
さて、ここで一旦人為的な切れ目を入れておこう。
今日は何をどうしたのか。さまざまに書くべきこともあるだろう。
例えば朝起きていくつかのことを済ませたのち、ホラー動画を見ていた。お昼ご飯を作る前に少し見ておこう。そう思って小一時間楽しんだ。その後トイレに行って、戻ってくると、携帯電話に非通知からの電話が。そして50秒間の無言の留守番電話が残されていた。私は恐ろしくなってそれらの記録を消去した。今後よほどのことがない限りホラー動画を見ることはないだろう。怪談を聞くとかそう言うことも当分なしにしよう。
そしてそれからお昼ご飯を作って、仕事をして、実家に寄ったり。
また明日だ。