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Germanistik, Philosophie(Aufklärung, Phänomenologie, Logik), Biologie, Musik und Kunst

日記:2023年10月7日

今日は気分が悪くない。9月の終わり頃から次第に心身ともに落ち着きを取り戻した。長い学生生活、そして5年の非常勤生活で大学歴に体がすっかり順応しており、夏学期(春学期)と冬学期(秋学期)が始まる頃には一応帳尻を合わせたように調子が戻る。

気温もすっかり下がって、風が強いと涼しいし、空気を入れ替えていると肩が凝りそうなほど冷える。だがそれでも体がこの日照の少なさと涼しさに慣れてきたのか、本当に楽になった。睡眠はうまく取れないままで、気分は低空飛行だが、上がったり下がったりするようにはいい。だいたいそんなふうにもう10年以上過ごしている。

冬の安定期は書くことも読むことも集中しやすく、落ち着いたトーンになることが決まりだ。だから今のうちに多くの原稿を仕上げるまで持っていこうと思う。

それにしたってドイツ滞在も折り返しであり、毎日のようにここで過ごせている時間に感激を覚えていると言ってもいい。終わりが見えてこそありがたみもあるし、そもそも生活から受けるストレスからようやっと解放されてきたのだろう。買い物一つとっても様々な問題があった時もとうにすぎて、季節の変化を楽しむ余裕が今はある。本当ならここからさらに二、三年滞在すればお釣りが多いのだろう。

毎日のように図書館で古い本と向き合えるようにもなった。ときどきではなく、毎日だ。そしてヴァイマルエアフルトに行くことにも積極的になれる。今はこのご時世で出かければracial harassmentに遭遇するリスクも上がるが、基本的に多くの人は、半分以上の人は友好的だし、ドイツ語がある程度使えれば尚更だ。

 

youtu.be

 

最近毎日この曲が頭の中で流れている。Trentmøllerはデンマークの作曲家で電子音楽やギターを手にシューゲイザー周辺の音楽を世に送り出しているが、どれも素晴らしい。この曲は特に私は好きで、実際タイトルが表す通りの心持だ。

ドイツで過ごしている日々は全く白昼夢のようだ。ローマで発表して友情を感じたことも、その後イタリアを縦断旅行し、スイスでアルプスの山を散策したことも、ドイツ各地で様々な景色を見て、少なからぬ人々びと交流してきたことも。そして8月にSommerschuleでMartinと一緒に発表して、彼から労ってもらったことも、そう、そもそも彼のお宅を訪れて研究の相談をしたり一緒に文献を読んだりしたことも、世間話をしたりサッカーを見たり。これはまだ続く。そして再来週からハレでFulda先生のゼミにも通う。信じられないことにここのゼミやイベントと被ることはなかった。素晴らしい偶然。そんな幸運に恵まれているんだから時間を無駄にはできない。

研究以外にくたびれるようなことは、パートナーのおかげもあってほとんどない。結局ここまでの半年で、多少お互い神経がヒリヒリするくらいまで努力したんだと思う。それがここからの半年を支えるはずだ。いや、多分今後の人生をかけて、ここでの苦労が身を結ぶと思う。そう信じているし、そうでないはずがない。ここでの一年は、日本で過ごす十年だ。

まだ旅行にもいく。多くのイベントがある。そして研究もはてがない。どこまでも調べられる。ここに現物がある、書物がある、人がいる。Martinの存在は本当に大きい。彼のおかげで世界が広がった。日本にいた時にも、調べ物をして彼の名前にあまりにも出くわすから、それで結局彼にBetreuerを頼んだ。そしてすんなりと引き受けてくれた。資金があったのは大きい。だが結局彼が見ず知らずのよくわからない博士を受けれたことが全てであり、そこまでに助けてくれた人もいる。彼は、あるいは助けてくれた人は、独文の博士でありながら官房学や他のことに色々と関心を持って研究を進めていることを評価してくれている。珍しいことだ。だがそれはいいことなんだ。それでなければならないというのは学問ではない。学問は自由だ。すべきことがされ、真実がそこにあれば良い。真理は自由をもたらす。

だがこうした日々はまるで夢のようだ。まだ夢のようだ。ふとした瞬間自分は自分を上から見ている。自分を地球の外から見ている。なぜそこに、ここに、そしてなぜそれを、これを、そうしているのか、こうしているのか。起きているのか眠っているのかは関係がない。これが現実であるということが現実の揺らぎやすさを意味している。決まっていることなど何があるのだろうか。信じられないことは起こりうるから信じられないのであって、信じられることだけが起こるのであればそれはむしろ本当の意味での幻だろう。

胡蝶の夢、それはあまりにも現実らしく感じられたからこそ夢に過ぎない。自他の区別がある場所には思いがけないことが常にあるのであって、信じたくないことも、思っても見なかったことも、本当に起こってしまう。

 

10月3日にはドイツ統一の日を迎えた。その日私は気づかずにヴァイマルの図書館へ向かうところだった。ところがオランジェリーの庭園を通って停留所まで向かったところで気づいた。そして引き返した。単なる散歩に終わった。冷たい風が城の堤に沿って吹き抜け、色も薄くなった草の歯を撫でていく。そして枝が揺さぶられ、落ちてきた枝を私は拾い上げて持ち帰った。形がよく、落ちたばかりなので綺麗だ。

 

そうやって日々見出せるものが増えていたのはいい兆候と言える。

そして早々と済ませておくべきことが今になってわかってくる。もっと努力をする。そう、例えばエスプレッソ用のケトルはドイツに初めて滞在することになった人は必ず早く買うべきだ。というより日本でも買うことはできる。私はドリップよりもエスプレッソの方が好きなのだと気づいた。これで淹れたコーヒーを朝に飲んだら1日が鮮やかで、昼に飲めばくつろげる。醒めていなければ夢など見えず。

 

さて、イエナへ行くためメールを書く。