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Germanistik, Philosophie(Aufklärung, Phänomenologie, Logik), Biologie, Musik und Kunst

記録:Aleida Assmann (1998) Der Sammler als Pedant

Aleida Assmann (1998) Der Sammler als Pedant. In: Aleida Assmann, Monika Gomille und Gabriele Rippl (Hg. ) Sammler - Bibliographie - Exzentriker. Tübingen (Gunter Narr) 1998, S. 261-274.

好古家という日本語としての表現は確かに古いのだが、17世紀以前に遡ることがあってもそれは語源的な問題にすぎないかもしれない。現在訳合って江戸時代のこのことについても色々調べているが、ここでおそらく重要となるのは好古とは「奇」なるものを「弄」するということと変わりなく、好古家とは一種の変わり者であると認識されていたことだ。そして好古家という社会的カテゴリーが18世紀に入る頃に確立したといのは洋の東西を問わないかもしれず、その理由を探る必要があるだろう(そして私にはいくつか仮説はすでにある)。

アライダ・アスマン (Aleida Assmann) のこの論文、そして彼女によるこの論集の導入でも、この点は一種の人類学的現象として理解される可能性が示されている。

どうやら人は古びてしまったものを好むことが普通ない。その上、収集されるものというのは常に古びたものであるということも言える。例えばマイケル・トンプソン(Michel Thompson)「ゴミ理論(rubbish theory)」で明言されているように、アーカイブされる収集品とゴミとの境界は曖昧である。なるほど骨格標本と食べ残しで放棄された骨との境界も曖昧だ。むしろこう述べることも許されるだろう。ゴミは一定の加工処理をされることで収集品となる。

これはネガティブな事実ではない。むしろゴミとされるものが何かを理解すること、あるいはゴミとされているものから判明する事柄から政治的・社会的な問題を拾い上げることは、収集されているものについての理解や収集の政治的・社会的な問題と鏡のように合わせて理解される必要があるという、学問的な課題を端的に示しているだけだ。

この収集品とゴミとの境界が曖昧であることは、どれだけ強調してもいい事実である。とはいえここで問題となるのは、むしろ蒐集家という人々のキャラクターの方だ。なぜある種の人は古いたもの、毀損されたり放棄されたりしたもの、そしてゴミとされるものを愛することができるのだろうか。そしてその愛は決して何かを理解するということでもないかもしれない。

Assmannはこの論文の翌年に出版した『想起の空間』Erinnerungsräume (1999) *1の第五章「アーカイブの彼岸」で実際トンプソンの理論を引いてこう述べている。

Das Archiv, das eine Sammel- und Konservierungsstelle für das Vergangene, aber nicht zu Verlierende ist, kann als ein umgelehrtes Spiegelbild zur Mülldeponie betrachtet werden, auf der das Vergangene eingesammelt und dem Zerfall überlassen wird. Archiv und Müll sind aber nicht nur durch eine bildliche Analogie, sondern auch durch eine gemeinsame Grenze miteinander verbunden, die von Gegenständen in beiden Richtungen überschritten werden kann. [...] Archiv und Müllhalde können obendrein als Embleme und Symptome für das kulturelle Erinnern und Vergessen gelesen werden, und in dieser Funktion haben sich Künstler, Philosophen und Wissenscafhtler in den letzten Jahrhunderten zunehmend für sie interessiert. (Aleida Assmann (1999) Erinnerungsräume. München (C.H. Beck) S. 383.)

ここを読むとはっきりするのは、想起と忘却の対、アーカイブとゴミ溜めの対、この二つの補完関係にある事柄の間には直感的アナロジーに限らない共通性が認められ、もはやアーカイブされたりゴミとして溜めてある対象自体によってこの境界が曖昧にされているということである。例えばそれが、時間経過とともに古びる、朽ちる、変質するということだ。

そしてAssmannが冒頭に挙げた論文で示す通りこれはフェティシズム、いや一種のネクロフィリアである。だが物は、打ち捨てられたものであろうと、おそらく死体と認識されているものよりも雄弁だ。いや死体だって、それがペルソナを剥がし落としてしまった後、解剖医にとっては雄弁となる。以前の所有者や以前の経歴をまとめ上げたペルソナを剥がしとる過程、不必要にまだ生々しい肉体を剥がしてとっていく過程、この加工処理によって捨てられてしまうものは収集品となる。しかし、この加工処理は一体どのようなことを意味するのだろう。

さらに、ここでもう一つの疑問が打ち立てられる。つまり、これまでしばしば言われてきたような、そのもの自体を愛する好古家などいたのだろうかということだ。17世紀に揶揄されていた姿というのは、それ以前にもそれ以後にも変わることがないだろう。揶揄されるべきかどうかは別として、そこには何がしかの真実があるだろうし、その上で言われるところの歴史家との区別などというのはどこに求められるのかを慎重な議論を要する。あっさりそういってしまうことはむしろ誤りであることが、モミリアーノやグラフトンの議論以後明らかだろう。

(もちろん私自身決定的な資料を出すことはできる。ここで出すくらいなら論文にしたいところだが、ある歴史学の教程を説く18世紀後半の書物にはアルケオロジーの対象を扱う古典的学問の不可欠は言われていたし、それゆえに物語的な、いって仕舞えば哲学的な歴史学とは異なる歴史学において、不確実な部分が残ることは悪いことではなく、不正確な埋め合わせをするよりマシであると理解されていた。この書物はランケより遥かに前であるし、遥かに節度がある)

この疑問に暗に応えるためにも、先に提示した加工処理の意味について考える必要がある。つまり加工処理における手法へのこだわりが、何もかもをそこに投げ込んでしまうことを可能にするような壺を作り出す。そのような壺によって収集されたものは対象や道具へ変化し、超えれにはおおよそ三つ種類がある。一つはそれが継承されるべきものとなること。次に商品となること。そして最後に治癒の道具となることである。

一つ目は博物館や記念碑、文書館といった施設の設営、あるいは保存すべき遺産としての認定など、社会的なアセスメントの設定とその運用を通じた文化的地位を特定の事物に与えることとして理解されるだろう。

二つ目は、例えば、天に新しきものなしということが皮肉を帯びて体現されるセカンドハンド市場である。そこはまさにアーカイブとしての市場、マネタイズされるゴミ溜めである。そこではゴミであればなんでも商品にすることができる。だから不要となった書籍から排出された体液まで、実質的には売買されうる。

(臓器売買や売血は、不要となったものではないはずだ。それは文字通り生きた肉そのものであり、生きたままにしておく加工をなすことによってしか貯蔵することはできない。だが技術的には生殖細胞の売買においても同じことが言えるが、おそらくそれらは排出される以上不要となりうるものだろう。つまりこれらを考慮に入れるとこの話はうまくいかない可能性すらある。このうまくいかない状況を、おそらく行政や司法の介入によってプラグマティックには解決できる。だから実際記憶は社会的な次元と生体の次元で論じられる必要があり、記憶の所有、記憶の放棄というのは両方の次元が交差した場所で極めてセンシティブな問題となっている。例えば技術的にいずれ可能となるだろう、トラウマを医療的配慮から忘却させるなど。『想起の空間』でもトラウマは一つの中心的な論点であるが、その背後には非常に多くの論点がまだまだ控えている)

だがさらにこの時、フェティシズムのための市場があるとするならば、本来の特定個人と結びついていたペルソナとは別のキャラクタライズが必要となる。どこで出土されたとか、誰の所有物であったとか、そういう来歴についての情報は、その最も核心に迫る情報が存在しないことでむしろ想像力を豊かにさせるように思われる。特定の他の情報を本来まとめ上げていた核心的なID情報を抜きにして、特定の性質にフォーカスできるようにする。むしろ名前とその名に付随した諸々の説明の間の構造が入れ替わり、特定の性質が物を代表し、名前や具体的な情報は、同一の性質の物の間の異なる特徴を説明する要素にすぎなくなる。

つまり、あえていえば、このような蒐集行為、フェティシズムは分類作業のプロセスを通じた種への愛にすぎないということだ(私はあえてここで記号という言葉、そしてプラトニズムという言葉の使用を避けていることに注意されたい)。ここで収集かが知りたいのは物の持つ具体的な性質や具体的な同定可能性をもたらす情報ではない。むしろそこで愛され、探求されているのは恣意的であれ特定の系列を想定することで、それら収集物の背景情報が構造化され、その結果明らかにされる事柄の深層である。

だが、例えばここにある古着、中古CD、あるいは死体、指紋、側溝に不自然に溜まった吸い殻などなどが明らかにすることとは何か。

三つ目の治癒は、このプロセスと多かれ少なかれ関わっているのも確かだ。つまりこのようなプロセスをひっくり返したところにある。核心に到達することを避け続けるための叙述に変化した叙述を止めるための可能性。収集のための収集を止める。何かを塞ぐためだけの収集、最後にはいかなる加工処理をも忘れて放置され、もはや腐敗が進んでいてもそこに置かれたままのものを片付ける。その腐敗を認識するための感覚をとり戻す。これらが必要となるとき、その方法は様々にありうる。だが外科的侵襲によって除去することができるとしても、そののち、そのトラウマの存在を前提に形成された生活・社会の空白地点を見つめ直した時に何を感じるだろうか。その不自然な空白をどのように受け止めることができるだろうか。

悪質なプロパガンダのために等閑なままにされながら何かを物語るように見せびらかされている獄門首や吊るされた死体、極右の掲げるある種の「資料」、あるいは小野不由美の『残穢』に登場した霊の囁きから逃れるために屋敷に積み上げられたゴミ。最後にそのような連想を残して、一旦ここまでにしよう。

 

 

*1:邦訳『想起の空間』安川晴基訳、水声社、2007年。この間新装版が出て手に入りやすくはなったらしい。A. アスマンのこの本は当然ながらミュージアム論やアーカイブ論でも参照されるべきであり、「〜の政治的言説」のような分野でばかり参照されたりしているのは勿体無いが、A. アスマンを翻訳紹介する人たちは皆その分野の人ばかりで、そもそもmaterial cultureに取り組む人が多くはないので仕方ないのかもしれない。翻訳者は適切な紹介を心がけるべきだとは思うが