Backdoor of Car Damon
コーヒーが冷めてしまわないうちに飲み干すのが常なので、サーファー=劉の口なのかはいつも爛れていた。もう三日眠らずに彼はディスプレイを眺め、キーボードを叩き続けていた。彼がコードを休むことなく延々と書き続けていたのは、衛星映像から見つけ出した道路を貫いて高速で移動する紅の染みが原因だった。それは紛れもなく、およそ半世紀前に3000台ほど限定製造された840馬力を記録した怪物アメ車、旧型SRTデーモンの走り抜けていく影だった。まさかまだ現役で走り続けているとは夢にも思わなかった劉は、必死にその車を追跡していたのである。
サーファー=劉は、三日前に偶然中央政府の衛星監視システムのバックドアを見つけ出し、路地裏からレストランの厨房まで、文明国らしからぬほど飛びまくっている蝿が、実はムスカ型監視ロボットであることを確かめて唖然としていた。北京西方のエリア36に張り巡らされた監視網を飛ばし飛ばし見ながら、衛星映像に切り替えると、それは現れたのだった。炭酸ガス排出量をゼロにした国の首都、その大通りを堂々とガソリン車が走っているとは信じられなかったし、そんなクラシックカーが状態よく残っていたとは驚きだった。自動車マニアであった彼はその持ち主を知りたくて仕方がなかったが、あっという間にエリア36を通り抜けて行こうとしていた。劉が見つけたバックドアは、36の約数のエリアにはアクセスできたものの、それ以外に飛ぶことはできなかった。彼は必死に探し、ハッキングしてはまた新たな地区のカメラへと、まるで飛び石を伝うようにして、赤い悪魔を追い続けていた。
インターネット上は噂の海だが、確かにその車についてもいくつか陰謀が囁かれていた。というのも轟音響かせ、悪臭を撒き散らして走り抜けていくガソリン車に住人たちも気づかないはずはなく、毎週何時にどこに現れる、とか、持ち主は実は党幹部である、とか見慣れたものばかりだった。どれも今は検証している場合ではなかった。とにかく追跡し続ければいつか持ち主にたどり着けるはずだからだ。
だが彼の予想に反し、SRTデーモンはいつまでも走り続けて止まりそうにもない。大都会のパイプや高速道を、山岳の曲がりくねった道を、荒涼とした黄色い大地をいつまでも駆けて、そうしてある時には国境間際まで行き、ある時は自治区を横切り、最後には鬱蒼とした長江流域に向かって行った。そうして熱狂していた彼もついに草臥果ててしまった。追跡を諦めようか、働かなくなってきた頭を叩きながら、彼は気づいた。この車、一度も給油していないぞ。実際にガソリン車を見たことも乗ったこともないサーファー=劉は、初歩的だが致命的な問題を見落としていたのである。だとすれば、この自動車に見える高速で地上を駆け抜けていく影は一体なんだ。
腰痛は酷い、頭も割れそうだ。劉はついに音を上げてシャワーを浴びようと服を脱いだ。そこで倒れてしまい、彼は敷居に強く頭を打ち付け失神してしまった。
彼が目を覚ました時、すっと爽やかな香りがして、それはいつか昔海辺で嗅いだ匂いに似ていて、それから耳元で囁く女の声がした。起きて、ねえ起きて、劉。目を覚ましなさい。サーファー=劉はゆっくりまぶたを開き、そこが自分の散らかった作業部屋ではなく、清潔で明るいリビングであることに気づいた。誰かの家。ここはどこだ。どうしてこんなところにいるのか。彼は布一枚を纏っているだけで裸だった。ソファーに寝そべっていて、彼の耳元で囁いていた女は、窓辺に歩み寄って背中だけが見えていた。君は誰? 劉が尋ねると、小荳蔲と彼女は答えた。それは彼が目を覚ます時に嗅いだ香りの名前だった。
小荳蔲、君をなんと呼べばいいのか、やっぱりよくわからない。だけど、とにかくここはどこなんだ。僕の記憶が正しければ、床に頭をぶつける前には確かに自分の作業部屋にいたはずだ。あなた、サーファー=劉は本名劉黄波、所謂7G世代、21歳の時に手術を受けてインストール済の電脳を三つ複製、マヤコフスキー回路に生成された露文調の詩を愛読する。私はあなたのことをよく知っています。ここであなたが脅かされることはありません。そこで劉は尋ねた、もしかして君はガイノイドなのか? そうではありませんが、もしそうだとしても正直に答えるはずもありません。私が何者かを知る必要があるなら、一つだけ答えましょう。
そうして彼女は逆光の中振り返った。顔は一向に見えなかった。そして彼女は劉が窓と思っていたディスプレイにSRTデーモンを映し出した。あなたが追跡していたこの車の持ち主です。だが劉は全く状況が掴めず、ぼんやり天井を見回していた。あなたは地上を走っていたこの車を衛星カメラで追跡していましたね。光学装置を搭載したこの車が、不審なほど政府に追跡されていることを報せてくれました。だけど実際調べてみたら衛星監視システムに侵入の痕跡があった。あなたはバックドアを見つけ出しことを単なる幸運と思ったでしょうけど、自分が催眠にかけられていることには気づいていなかったのですね。劉はそこでようやく彼女の言葉に反応した。催眠って一体?
そこで劉は、街中を走っていた思ったこの車は、実際は仮想空間を航行し、バックドアを見つけ出したハッカーに催眠をかけていたのだと理解した。だとすれば、彼女は党の人間なんだろうか? あなたは偽装意識から醒めたばかりなので、まだ脳が酔っ払っているのかもしれませんね。三つある電脳は全て、あなたの意識を異なる量子世界に分散させていましたが、今ようやく統合されたのです。
待って、じゃあこれはもしかして生身なのか? SRTデーモンに載せられたいくつもの意識がここに集約されたというわけか。意識だけが、まるで世界遊覧を楽しむように、仮想上の旧型のスポーツカーに載せられ、ハイスピードで大陸を駆け抜けていたわけだ。詳細はまだ劉にはわかっていなかった。だが、その空想が彼を楽しませたようだった。彼は妙に納得してしまい、小荳蔲に言った。じゃあ君は僕を滅ぼそうというわけだ。僕を肉体に引き戻して。まるで死神だな。
そう、そう呼んでもらって結構。死神。素敵。もはや民なき神となった死神ね。でもあなたを偽装意識から呼び戻したのには訳があります。
なんだ、まるで古臭い映画だ。レッドピルを飲むかどうか迫られるやつだよ。
私はギークではないので映画を見たことはありませんが、どちらにしてもあなたは偽装意識から目覚めて、煉獄に降りてきました。燃え盛る山並みに囲まれているこの場所は、現実の世界だと思いますか?
じゃあ生身じゃないのか。よかったよ死神さん。僕はまだ不滅だ。
いえ、私は確かにあなたに死をもたらしました。もう一度申しますが、ここは煉獄なのです。つまり、死後の世界です。
そうかそうか。いい加減嘘ばかり吐くのはやめて本当のことを言ってくれ。ここはどこだ。僕はいつ帰ることができる。
帰ることはできません。ここは死後の世界です。現実世界ではありません。仮想世界でもありません。でも、確かに量子世界に分散した意識の一つに過ぎません。
いやいや。意識なんて物質とともに滅びるんだ。もし僕が床に頭をぶつけて死んだのなら、その続きはなし。赤いガソリン車がなんの関係がある。死神が部屋に匿ってくれるなんて、どんなおとぎ話でも聞いたことがない。それに、こんな香りがするはずがないだろう。だって、とても懐かしい香りだ。昔サーフィンに打ち込んでいた時に、そんな香りの日焼け止めを塗っていた女がいたんだよ。僕の恋人だった。少しして姿を消してしまったけどね。彼女の名前は、ええと。そこまで話して劉はあることに気づいた。そして押し黙って、涙を流し始めた。
そうだ、彼女の愛称はカサンドラだった。そう。この日がやってくることを彼女は知っていた。彼女は夢を見ていた。夢の中で私は赤いスポーツカーに乗って、彼女と重力の渚でドライブを楽しんでいたんだ。そんな懐古的な夢など実現するはずもないと思っていたのだが。君の顔を見せてくれ、カサンドラ。いや、小荳蔲。君をまだ愛していた。
そうして彼女は逆光の中から一歩、二歩歩み出てきた。君はバックドアから顔を覗かせた死神だったんだ。そうして僕に死をもたらしにきたんだ。そうして彼女の顔が見えるかどうかという瞬間、世界は突然ノイズに塗れ、電子的な輝きを残して消え去ろうとしていた。
それは840馬力の出力から繰り出される猛スピードのなかで眺める世界そのものだった。あまりに早い走馬灯が過ぎると、あっという間に彼の意識情報は小荳蔲の香りとともに、地平上で蒸発してしまった。