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Germanistik, Philosophie(Aufklärung, Phänomenologie, Logik), Biologie, Musik und Kunst

覚書 > 声、それ自体、それによる、それにおいて

最近意外な経緯で一世風靡SNSのClubhouseに招待してもらえた。それで結構頻繁に利用してしまう。実際これまで辿り着けなかった方々と話をする機会ができることでとてもありがたく感じているし、そのおかげで研究に弾力が出てきたというのだから。

 誰かと話したいからだろうか、それとも誰かの話を聞きたいからだろうか。そのいずれもすでに別のツールで実現されているとはいえ、Clubhouseに特別の魅力を感じていることを否定できない。なぜそれほど魅力を感じているのか。

 この理由を考えるとき、性格とか現在置かれている環境とか、そういうパーソナルな理由をひとまず横に置いて、真っ先に考えるべきは、そこに誰かしらいるかもしれない、ということだろう。正直なところClubhouseを開いても誰の話を聞かない時もあるし、話すこともないし、誰かが話しているを確認するだけで満足することすらある。誰かと話したいと思ってroomを開いたところで誰も来なくとも、それほど残念ではない。Clubhouseにはもともと知り合っている人もいるし、他方でいつも同じ時間に乗り合わせる電車やバスで(あるいは同じ時間帯に教室に通っているの人たちの間で、あるいは行きつけのバーで)たまたま形成されたような人間関係もある。そこに結局「あの人」がいなくとも、少しは残念かもしれないが、別に何も思わないし、どうせ積もる話をした方が盛り上がるというものだ、というくらいの気持ちにもなる。

 尤もTwitterとは全く異なり、実名やプロフィールなどによって、ある程度選択もできるし、いずれのユーザーも、別の誰かによって招待されているという安心感もある。Facebookの得体の知れない検閲や、よくわからないデザインともおさらばできる。あるいはYouTubeツイキャスよりも断然いいのは、コメント機能がないという点。電話やLINE、Skypeは固定化された人間関係だけであり、zoomでは畏まっている気もするし、顔を出すか出さないか、とか、色々面倒な情報が入ってくる。

 そう、Clubhouseは余計な情報を考える必要がない。ただそこにいる人とおしゃべりできるという気楽さがある(もちろんラジオとして利用してもいい)。自分が注目されてしまうような緊張する局面を乗り切った後に、雑踏に足を踏み入れた時の安心感、誰も自分を気にしないにもかかわらず、衆人環視のなかで不確定性よりも信頼性をすら感じてしまう瞬間。もちろん話をするときにさまざまな情動を経験するにも関わらず、外部の情報は制限されているので、ある程度自分の中から溢れる情報に身を委ねられる。

 声、あるいは身体の一部でしかないものだけでそこにプレゼンスしているというのは、内的アイデンティティとは別に、どこの誰であるかと社会的に与えられるアイデンティティに対して戦略的である必要がありつつも、しかし実際に話をするときにはそこまで戦略的である必要もない。ただ自分をそこに置いておくことで、相手の視点に対して「私は」と話し始めることの重要性がここにある。コミュニケーションにおける不透明性を、解釈に際する時間ラグを省略しつつ、適度にエラーを許容しやすい態度にすり替えることができる。会話はテンポやターンが重要であり、そこで感情を相手に通じてしまうかも知れない状態で表出してしまう以上、その場に適切な振る舞いをしようという、一定の制御がかかる。これは「私」の言いたいことをねじ曲げるわけでもなければ、「私」のありようを変えるわけではない。むしろ「私」が、あくまで「相手」を前提にした呼称であるという事実に気づきながら、言葉を組み立ていく必要がある。

 このとき私は、自己意識にべったり張り付いた「私」とはすでに異なるものである。これは現実のコミュニケーションでは普通のことなのに、文字のメディアではしばしば困難であり、あるいはzoomでは映像の反射によってもっと困難である。

 あるいは電話やLINE、Skypeでは固定化されているに過ぎないし、前提とする機会の制限がそもそも個人的関係に関連した情報に依存している。とはいえこの手の流動性は、もしかすればかつてより存在している合コンとか相席居酒屋、婚活パーティなどはとうに実装しているのである。

 さまざまな側面から見たときに、Clubhouseは、「人と直接会わないとダメだ」という主張の根拠の8割くらいはざっくり葬り去ることになるだろう。問題は、そこにある「声」はやはり一種の外行の装いであるということを自覚する必要があるということだろう。それの何が問題なのか、この離散集合する放送のなかで、とも思えるかも知れないが。

 こうして色々考えると、このメディアは明らかに夜行性で都市的な人間に適していることがわかる。だが田舎者にとっても魅力的であるには違いない。

 この離散集合は、しかし、あくまで情報のロジスティクスとしてのIT技術に自身のパーソンフードを委ねることでもあるので、それはそれで「装い」が楽しいだけかも知れないのだから、恐ろしくもある。田舎者の私からすれば、Clubhouseを覗いているときには「真夜中のカーボーイ」になったような気分である。