anti_optimized haunted processor

Germanistik, Philosophie(Aufklärung, Phänomenologie, Logik), Biologie, Musik und Kunst

雑感 Nov. 2022

外国語で生きていく必要がある時、つまり外国語での決して流暢になり切ることのないコミュニケーションを用いてなんと生きていく必要がある時、耳を貸してもらう二つの方法がある。一つは、やはりできる限り流暢なコミュニケーションが可能になるように会話の練習をすることである。もう一つは、聞くに値することを話しているだろうと期待してもらうことである。

これらは実際のところ母語においても同じである。論文を書くことで得られるものは、論文を書くことによって提供できるものに釣り合う正当な対価というわけではない。むしろ異なる次元において生じるもので、だからこそ可能な表現というものがある。

どういうことか。様々な社会にはそれぞれの評価基準というものがあり、その評価基準は内容に関するものであったり、形式に関するものであったりする。だがそれだけでなく、イデオロギーや宗教的・政治的正当性、アイデンティティ(ここでは特に市民であるかとか国民であるかといった、特定の国家への帰属者、あるいは民族や家系への帰属者であることが意味されている)など社会的に構築されるカテゴリーや、なんらかの認知バイアスの引き金になる種々の性質、そして重要なのは特定の学者のキャリア(出身地、出身大学・大学院、何歳で、どの学位を有しているか、職歴はあるかなど)が、評価基準に絡みついていたり直接的に採用されている場合がある。これには功罪ある。基本的には罪の方が言及されやすいが、それでも功についてはいうまでもないというように片付けられる。いずれにせよこれらは論文それ自体の信頼が、著者に関する情報によってサポートされるのが望ましいと考えられているからである。

しかしこの20年ほどインテレクチュアル・ヒストリーを牽引する一人であったearly modern period研究の泰斗であるMartin Mulsow氏が『根無しの知識(Prekäres Wissen)』で振り返ったように、信頼されない著者によって書かれていることによって可能となる真理の言明と理解ある伝達というものが過去には存在してきた。これは重要な観点で、以上のような基準が、時に政治的・社会的な圧力や実存的危機に直結するような知識や発想を表明するには、匿名性を作り出すか、まともな自分ではそう考えませんが、といった本気でない素振りが必要であったりする。これは出版や著述におけるテクニックやレトリックによって実現する。著者が自身の表明をいつでも撤回可能にしておくことがここでは重要で、時には言い抜けしたり偽名や匿名を隠れ蓑にするということ、そして公式的には消されてしまうような知識や発想が、命脈をつなぐということがある。

つまり著者に関する情報によってサポートされなくとも、それとわかる表現の形式によって理解されなければならない場合、信頼とは別のものがそこではサポートされる。

逆に権威ある著者、公式的であるとか、なんらか評価基準を満たすことで信頼がおけると判断できる著者だからこそ信じてはいけない発言というのもある。これは国家の公式なステートメントにおいて、プロパガンダを警戒して、しばしば受信者が採用する態度でもある。そして逆に個々の人間が自らの経験から語るものに特別の価値が与えられることがある。その人間は、その語りと自身の背景を一致させることにはなるのだが、それがいかにも応答可能な態度に見えるために、またそれを信じることにおける受信者側の応答可能性も求められているように思われるために人々はそのように評価する。

「何者でもない」という表明が、ベラのように、発言内容にまとわりつく(発言者自身すら)諸々をはぎ取り、真実性や真正性を剥き出しにするかのようなのだ。ところが発言者自身の個人的な物語であったはずなのだが。

とはいえアイデンティティについて論じたり被害経験/加害経験、あるいはある種の告発、このような危険回避策ではなく、むしろ偽名や匿名を用いながら、何者かではあるのだが、という回避策を取ることで、特定の立場にある個人にしか獲得しようのない話を、単なる個人的な物語(しばしばそれは単なる「背景」であるのだから)とは切り離して(「背景」が知られることは危険なのだから)表明する。

故に、確かに撤回可能な形にしておくことで、自らの責任のもとに発言を置いておかないことで発言する方が、仮に誤っていた時やはぐらかしの表現を用いた時にも、幾らか弁明の余地もあるというものかもしれない。だが現在は情報はたちどころ拡散されるので、一つ一つの情報の影響力がすぐに拡大していく。その結果撤回可能な状態での見解は、慎重な隠匿や仄めかしの表現に置き換わる。結果的に発言の裏が前提とされていると思い込んだ人々によって、歪曲が重ねられたり直情的な非難が正当である(最終決定可能である)とされ、仮に撤回があっても、なぜそんな無責任な発言をしたのか、とか初めからそう言えばいいといった弾丸がますます多く浴びせかけられるというものである。このような迂言は普通弾丸を恐れるから現れるが、Jaster & Lanuis が『真理はズタボロ:いかにしてフェイクニュースが政治となるか(Die Wahrheit schafft sich ab: Wie Fake News Politik machen)』で指摘したように、フェイクニュース暴露を稼業とするものや、フェイクニュースの発信者やそれを焚き付ける笛吹男たちはそのような弾丸を食らうことを名誉の戦死として受け止めたり評価しているようだ。

なおこの時注意深く考える必要があるのは、情報の拡散速度は、大衆もまた一人の意見者として判定者であるときには、最初の発言者にとって脅威になりうる(つまり判定者優位)。しかし逆に検閲機関など、判定の権限が集中化されていたり階層化されている場合には、情報の拡散速度はそれをコントロールしようとするものにとって脅威となる。つまり情報の拡散速度が持つ力は、見解に対する信頼の保証をするものにとって(保証の責任が発言者個人に帰せられる状況なのか、検閲機関や学会のような特定のシステムに帰せられる状況なのかは問わず)脅威になることがある。

責任回避可能な発言は、個人的物語と異なり、むしろフェイクと明確に線が引かれる。というのも、やはりJaster & Laniusが論じてきたように、フェイクは必ず真実性や真正性を偽装するからである。そのような偽装がどのようにして可能になっているのかをきちんと考え直してみるといいだろう。

本当のことを言っているという姿勢を崩さないように発言することしか許さないような時代があるとすれば、それはフェイクも個人的な物語も、いずれもが洗練された思想や公式の見解を簡単に揺るがすことのできる時代である。ポリティカルコレクトネスはフェイクニュースと腹違いの兄弟である。

また、特定の社会集団を消去すること、あるいは従属化がプロパガンダの目的であるというのは実にその通りなのだろうが、しかしそこで言及されていないものを巡って議論することが、結果的には弁明しようのない(というのも弁明の用意もできない意図しない)解釈に対応する必要を作り出すことにもなる。もちろん最終的には本人に「本当のこと」をいうことを迫ることになるのだが、そのような糾弾は、然々の人間であるならば当然求められる規範に抵触したが故に懲罰的な処遇があってもやむなしという直観に根ざしているのであり、発言内容に関してのコミットメントを要求できるものでもない。

そして公式の見解に本当の意味で警戒することもできない。プロパガンダと(父権的であれ)福祉に資する情報の区別も曖昧にされてしまうような時代にあっては、人々は結局陳列された意見とやらを好き好んで選ぶことができる。そしてそのような意見の陳列を人々は時に世論とか公論、時の民意とか国民の意思と呼んでしまうのであるが、党派的意見を超え出ることもない議論がモードと同じくころころ移り変わることはとうの昔から明らかなことである。そしてモードが装いであるのと同じく、そのような意見も所詮は装いである。本気で信じていようとも、それはどんな時代遅れの服装も同時代には賞賛され、自画自賛するのがモードなのだから。

聞くに値する話をしているだろうという期待を人々は簡単に裏切る。どれだけ当たり前の話に対しても、不見識に対しても、流石X先生の著書は勉強になるなんて言ってのけることができる。そんなこと考えたこともないのに、〜〜という言葉によってモヤが晴れただの、〜〜という言葉に目から鱗が落ちただの。大したこともない見解にも、必死に齧り付いて何か出てこないかと知恵を絞ってあげることのできるお人よしどもが学者にもたくさんいる。面の皮ばかり厚くて前頭の皮質の薄っぺらい人間がどのような業界にもいる。

だからといって、聞くに値する話をしているだろうという期待もなく人々は耳を貸さないのではないかと恐れてはいけないのかもしれない。いつでも撤回可能であるかのように、あたかも冗談や諧謔のつもりで言っているかのように本当のことをいうこと、それはしばしば言語の偶然性を通過して真理が表出するエピファニーとして、受信者側にも意図的な翻した解釈が求められることがある表現である。だが、それは実に真剣な冗談なのであって、そしてそこに自由があるというものだろう。
だからやはり文学は愛すべきものである。自由な想像力が本当に力を発揮するのは、想像力は自由なのだという前提を壊すことがない時であり、想像力がいうことはなんでも頼りにしないでくれと言ってのけることができる時である。他者理解に想像力は役立たない、当たり前のことである。兎にも角にも、撤回可能性の余地もない言語の世界にあって皮肉も何もない、あるいは経験的にありそうな事柄から逸脱することも困難で、仮にそのような遊戯的な描写を繰り出したところで、下世話になるのがオチである(どんな時にも汚いは綺麗がリアリズムの鉄則であると思われてしまうからである)。どのみち規範的な地点からスタートすることを求められるが、そんな地点から進むこともなければ、作家は声を聞くことも叶うだろう。だが聞きたくもない声かもしれないが。