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Germanistik, Philosophie(Aufklärung, Phänomenologie, Logik), Biologie, Musik und Kunst

雑感 Nov. 2022 #2

大学、学生生活関連のツイートをたくさん見たので、そういうものについて雑感を書き留めておこう。

 

これとか

これとか

bluelines.hatenablog.com

 

まずツイート。この手の話はよく学生自身が自分たちを「生徒」と呼んだり、といった話と関連して語られ、そのような状態に異論があるとするならその異論には幾らか共感を持っている。とはいえ、これは学生自身の自覚とかそういう問題ではなく、単純に辞書的なレベルでの間違いを指摘している部分もある。だからどうでもいいと言えばいいのだが。

続いてブログ記事。これは確かに重要なことを伝えているようにも思う。私自身のこのメモからも、この記事にある程度共感を示していることが伝わるだろう。だが、率直にいってこの記事はあまり役に立つものではないように思う。知っておくべき事柄というのは確かだろう。だがこの記事を読んでから判断するような人は、やはりあまりお勧めできないのではないだろうか。よし覚悟を決めた、というのも奇妙な話だ。詳しくはあえて語りたいとも思わないが。

こうしたものを見て思い出したことを書くだけなので、一見すると直接的には関係のない話を書き留めることにはなるが、どう関係するのかについては解釈を委ねることにする。

以下

 

 

大学とそれ以前の中等教育をどのように区分すべきで、どのように自覚すべきなのかについては、必ずしも一般化可能な総意があるわけではない。もちろん存在意義とか理念といったこと、それに即して設定される生徒や学生に要請されるものが異なるのは明確である。この程度の理解は、社会の成員である以上は共有されていて欲しいというのは、学校や大学というのは社会制度であり、学歴と言われるものは資格であるのだから当然である。

生徒や学生といった身分の違い、その違いの原因となる機関という存在について、あまり理解できていないのが多くの人間であるように思う。というのは、学校というのは単に建物で、そこで何をするかについてはそれぞれでしょうという見解がどうしても根強いだろうから。教育を受けることは権利であるとか、教育を受けさせることは義務であるとか、こういうことを理解するより前に、学校に行くことは義務であり、学校に行かせることは親の権利である(託児か教育代行の行政サービス?)という考えが根強い。加えて言えば、学校は勉強だけをしに行くところではないという至極当たり前の、ある意味では内容のない見解が、学校という機関が存在することの目的自体を容易に掘り崩してしまう。勉強ができない子供には別の伸ばし方もあるという話は、確かに教育上の配慮として、子供自身の人生を考えた親切でもある。理念には多少の遊びがあるので、具体化する際に色々調整することは不可欠でもある。学校は年次教育が実施されることを目的としているのだし、年次教育には諸々のカリキュラムが設定され、それを達成することが奨励されるべきとはいえ、これが意味するのは足し算引き算漢字といった個別的な事柄を叩き込む「勉強」ではないというも全くその通りだろう。だがその通りであるからこそ、同時に、この勉強は生きていくために大事だから、とか種々様々な理由づけも言い訳もここには関与する余地はない。

仮に個別的要請に沿ってのみ必要なものが定められることが可能な世の中ならば、初めから学校などいらない。むしろ特殊なそのような社会が個別に養育し、教育していけば済むことである。公教育の目的のうちには、家庭やその他様々な私的な集団のなか、つまり家や土地や門戸といったものに個々人の人生が大きく左右されないように、平等な機会と公正な評価を与える中で云々、があるだろう。ざっくり言えば、個別の人生が人生の早い段階で否応なく割り振られる偶然的な条件に縛り付けることがないように必要なものが公教育であり、学校はその実践の場なのだから、家庭の影響でとか、世帯収入の違いによってとか、そういうことが露骨に反映されている現状は全く憂うべきことだろうが、それ以上に、そのような教育のあり方を個別的要請にいちいち結びつけないといけないのだという考え方自体がここでは不適切なのだと言わざるを得ない。

制度上の問題、現場での努力や工夫の足らなさ、人員の質と量の向上、カリキュラムの見直し、色々取り組むべきことはあるのかもしれないが、そもそも学校という場所の理解がおかしいので、そのために保護者であれ生徒であれ、その場所を共に構成することが困難なのではないかと思われる。

その理由の一つには、義務教育という概念が誤解のために、高校や高等教育とそれ以前を区分する概念として機能してしまうことがあるように思われる。つまり通俗的な義務教育の理解にはどうも最低限身につけておくべき知識や理解というものが中学まではあるのだ、という見解があるようだが、その見解は、高校や大学はそれぞれの事情を考慮して要不要を判断してくれ、という発想につながるだろう。しかしすでに述べたように、その前提もその前提から引き出される発想も、共に公教育というものが実現しようとしていることからすれば、全く的外れである。それどころかその障壁になる。

だから最初から勉強がよくできる子とそうでない子がいる、とかそういう話ではない。個性に応じたとかそういうことでもない。そうやって評価基準を多様化する過程で、その曖昧さを解消ようと無意味な、かえって子供たちを縛り付けかねない尺度をいくつも作り出すことになる。

通知表を覚えているだろうか。個別のテストの点数とは別に、受講態度や生活態度が反映されるあれである。成績評価というのは本当によくわからない代物でもある。

評価基準があまりにも明確になることで、かえってそれ以上の努力やそれ以外の努力をすることを妨げるということは大いにあるだろう。逆にその評価基準にそわないと懲罰的な態度を取られるなどして、特定の行為が社会規範化されると、それ以外の選択を想像する力も無くなっていく。だが、その評価基準こそが家庭や社会構造の問題を如実に反映してしまう評価基準だったらどうする。それは公教育の理念を実現しないどころか、真逆の現実をせっせと作り上げているに過ぎないことになるだろう。

私は学校が大嫌いで、小学校でも高校でも不登校になって病気になってもいた。そういう人には大学は合うかもしれないという話もよくあったのだが、本当のところ学校においてこそ自由があって欲しいというものである。カリキュラムが忙しくて死にそうだというのは、大学のカリキュラムで実現しているべきだろうと思う。だが真逆なのが日本の現状だろう。研究者になるにせよ、その後別種の職業に就くにせよ、専門的技能を身につける場所であるには違いない。学問は自由に進められるべきだろう。だが分野を超えてまで自由であるとは誰も思わない。そして分野内を自由に進んでいくためにも、かなりの訓練が必要なのは当たり前のことである。

これは役に立つ立たないという話とも違う。大学も教育機関の一つであって、教育実践に関して少なくとも、個別的ニーズとは関わらない場所に立つことが必要だからである。これは学校と同様だろう。だがそれと同時に、個別的ニーズに考慮しなくとも提供される専門知識は様々な職業に応用可能な能力を養うに足るのだから、学生は率先して身に着けることが奨励されるだろう。大学に学校よりはるかに多様な科目やより高度な授業が用意されているのは、当然ながらその頃には自分で自分に必要なものを選択してくださいという話がある。

だから特定のニーズに即して教育を実施してくださいというのは論外。また、これは研究の自由とも必ずしも同じように語ることができない(無論研究の自由にも大き関わるのだが)。