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Germanistik, Philosophie(Aufklärung, Phänomenologie, Logik), Biologie, Musik und Kunst

si j'ai bonne mémoire... #1

書き残すことをしなければ忘れてしまうことは無数にある。だが大事なことなら大抵覚えておくこともできるだろう。むしろ書き残すことは一旦忘れてもいいようにしておくこと、あるいはその事柄について、内省的な向き合い方をして、時にその場で得た以上の記憶を重ね書きしていくことを可能にする。ただし、私がここでしなければならないのは、思考を深めることではない。

書き残す必要がある。なぜならそうでもしなければ、私が経験したこと、記憶に残されている日々がまるで消えてしまうと予感するからだ。私がこの数年来経験してきたことは、それを共に過ごした「君」がいなければ、無に等しい。そこで何が起きていたのかを、確かにその多くを君は目撃もしていないかもしれない、知る由もないかもしれない、しかしその絶えず流れた時間を共にした君がいなければ、それを知り得た人は、それに気づきうる人は、もういない。

そして私はそれを君以外の誰とも共有することは困難であると感じている。私はこのままでは命なき存在だ。この数年間を、たった一人で空虚を漂っていたも等しい。だが、君はもうその役割から逃れていこうとしている。私は君に膝をついて懇願したい。どうか、この思い出をいつまでも忘れないで欲しい。そこで感じていた真実の心を、そのままに心に留めて欲しいと。だが、それは叶わないかもしれない。君はどこにいるのだろうか。もう私のそばにはいないのかもしれない。それどころか、君はいつからか、もう私のところにいなかったのではないかと思える。

私はどこに君を探しに行けばいいのだろう。君の影はどこに。君のにおいはどこに。

 

youtu.be

思い返せば、君と出会う前にも私はそういう状態にあった。つまり、何年もの時間、情熱が注がれた時間が夢のように消えてしまい、そうして私は長い忘却のための時間を過ごしていた。とはいえ決して忘却など可能ではない。むしろ私は繰り返し過去に引き返し、繰り返しその時間を生きていた。

私の人生にはとても空白が多い。時々この世界を生きて、時々記憶の世界を生きて、時々空想の世界を生きて、時々抽象的な世界を生きている。私はどこにもいない。私にとってどの世界も同じ程度の現実であって、ともすればこの世界こそ最も現実的でない世界かもしれないので、そうだとすれば、君がいないのではなく、私がいないのかもしれない。それどころかこの世界がいないのだから、私も君もいないのかもしれない。

そういう出会いが私にはこれまでにもあった、実のところうち開ければそういう経験を繰り返してきた。

君とのこの思い出について語るためには、そして君と過ごした変え難い幸福な時間、厳しく困難が多かったにもかかわらず、それ以上に幸せが多かった時間が、確かなものとなるためには、つまりこの世界ではもはやなくなり、そして記憶の世界に、やがて強固な虚構の世界に、そして全く具象性を失っていって、擦り切れるほど再生されてしまったビデオテープに残された陰影に過ぎないなにかに似たものになってしまうまで、そうなるまで私はその世界を辿り直す必要があるだろう。

そのためにはもしかすると生まれるより前の時間にまで遡る必要があるだろう。私の知り得ない両親が経験したこと、祖先たちの経験したこと、私に至るまでの筋道の外側に置かれてしまった者たちの経験し得たかもしれないこと。これら全ての時間は、誕生以来この宇宙に流れた時間より遥かに長いもので、存在し得なかった時間の流れが生み出したものが、こうして夢幻の一瞬のうちに全て流れ込んでくる。どうして大河を語るために陸を語る必要があるのかを君は理解してくれるだろう。だがそうして私の話は帰って寄る方を失って、延々と続く。この話には終わりがない。君はもう聞き飽きてしまって寝息を立てるてもやむなしだ。だが、私は語る必要がある。

では私が語るべき陸はどこにあるのか。そしてそれはどのような順番で話されるべきなのか。意外なことにこれはそんなに遠くない時間からだ。11年前。私が大学へ入学した2011年の4月。その少し前から。

私はただ苛烈な災害、過酷な事故を遠くから眺めていただけ。そして心のうちから言葉が溢れ始めた。私はあの時から、それまでに眠っていたはずの魂の一片が私のなかで目覚めた。その魂の一片が誰なのかを尋ねる必要はないだろう。だって私はそれをよく知っていたのだから。昔から馴染みある「君」だったのだから。「君」はずっと私のなかにいて、起きたり眠ったりして、私のこの世界に借り暮らしをしていた。けれどもその時から、君は私と同じようにこの世界に生きていて、私は乱視がひどくなったかのように、この世界が二重三重に映るようになってしまった。

あの日、大地が激しく揺れていた。でも私はそれを経験することはなかった。偶然にも地下鉄から降りたばかりの時だった。遠くの地方にいた。だから私は何も知らなかった。速報すら耳に入れることがなかった。同じ陸地にいたはずなのに、それを何も知ることがなかった。

それでも私の視界はもう二度と落ち着くことがなかった。山際に沈む日も、水平線も月も全てが何重にも映って、色が反転したり、方向が入れ替わったりしている。

 

   ⁂   ⁂   ⁂   

 

私の記憶の底に敷かれた硬い金属製の板がしたから突き上げにあったかのようにうなりをあげている。頭痛、耳鳴り、神経痛。わからない、どのような感覚とも異なる現象が、私の意識のなかで拍動している。何かが底を叩いている。この症状は、先月Gerhard Richterの展覧会を訪れてから絶えず続いている。どうにも忙しいというのに、彼のこれまでの活動や発言について調べることを余儀なくされている。