まざりなきかたちを、わたしたちは探し求めてきた。聖なる器はまざりなきかたちの象徴であり、それだけがまざりなきかたちを、真実に受け容れることができる。まざりなきかたちは、言葉を超えた言葉、地上にあってはならない、わすれられてはじめてその表現が追求され始めた、元始の澄明な旋律である。それはただ受肉されるだけであり、穢れなき場所が、その肉のために開かれたまま、数千年が既に過ぎてしまった。
ライプニッツが想い描いていた連続性のある世界は、モナド各々に内在的だ。神が自らより溢れさせ、瞬く光は、モナドを無数に、波打ちぎわで黙りこくっている小石のように産み出す。モナドそれ自体は完結し、その内部には世界――それはモナドの外部では決してない――が映る。無限小の表象から無限大の表象までが連続している。だが、モナドは窓をもたない。それは個々の具体的な有機体や事物ではない。
それは地上の器ではない。聖なる器なのだ。
Mnは、鏡像としての世界を内に孕む、Wnそのものである。
あなた方は忘れることが多い。だがモナドは決して忘れない。
あなた方は所詮、モナドのなかに揺蕩う表象に過ぎない。
だからこそ、この欠けることなく、渇くことない器から、
神のうちを還る血を飲むがいい。
イエスはある不穏な残照が山筋にこごわっていた夕べ、なんの変哲もない晩餐をみずから最後とした。彼は裏切りがあるはずだと尋ねる。しつこいくらいに尋ねるので、信徒たちは、晩餐が台無しになってしまうと思ったろう。だが、それは猜疑心ではない。愛でしかない。そのようなかたちが、わたしたちに見て取ることができるだろうか。
Als sie aber aßen, nahm Jesus das Brot, dankte und brach's und gab's den Jüngern und sprach:
Nehmet, esset; das ist mein Leib.
Und er nahm den Kelch und dankte, gab ihnen den und sprach:
Trinket alle daraus; das ist mein Blut des Bundes, das vergossen wird für viele zur Vergebung der Sünden.
ルター訳聖書「マタイによる福音書」第二十六章、二十六-二十八節
初春、梅の花が咲く。空襲はしばらくやってこないだろう。野菜が少し盗まれていたのを確かめたが、 嬶 には鼠にやられたと言っておいた。近頃、鼠一匹みることはないが、みすぼらしいなりをした孤児は嫌というほどみる。彼らがすべて、もう食べてしまったのだろうか。哀れなことだ。まるで蝙蝠ぢゃないか。
君、 媽というの名の永久に麗しい天妃 は、納屋の奥にしまってあったバドミントンの道具を取り出してきた。土筆採りの序でに、澤の流れを昇って、人知れぬ場所へ赴き、そこでふたりで遊ぶことにした。
君は撃ち、私は追う。
私が撃ち、君は流す。
君が手足を降ろす時、私はまだ弾をみているだけで、なにも予期せぬままだ。
君は撃っても、私は弾がどこへ向かうかを知らないままに追いかけてしまう。
だから不注意にも弾を追いすぎた。そして崖に右足を踏み込み、滑落し、膝を擦りむいたのだった。血が滲み、土で汚れた。気づくと、そこに開いていた鬼百合の花弁に、私の血が固くしみついてしまっていた。
破傷風が恐ろしくて、澤で傷を濯いでも、雪解けの冷たさに痛みを忘れても、私はそれから幾晩もろくに眠られず、厨の地下に冷蔵していたどぶろくを飲んで眠りを誘ったのだった。それでもなお、木の葉の擦れる音が背筋を凍らせ(……)