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Germanistik, Philosophie(Aufklärung, Phänomenologie, Logik), Biologie, Musik und Kunst

Mémoire du sommeil 2

6. March 2020

 

小春日和はもう過ぎた。冬の最中に訪れた平和というより、もはや春の到来である。当たり前だ、もう3月の初旬だ。

南中する陽射しは低くとも、車のなかで蒸されてしまうほどであった。晴れがましいほどの空は、起床してすぐの時には予想だにしなかった。相変わらず眠りは浅く、夢見も悪い。そういう時は睡魔が立て続けに襲ってくるにも拘らず、眠れば眠るほど身体が消耗し、偏頭痛で眼の奥が焼けることだってしばしばである。ベンゾジアゼピン睡眠薬は、神経の活動電位を混乱させ麻痺に陥れるだけだ。それは眠りと昏睡の境を消し去り、夢を破壊する。昨日と今日の境と連続を、つまり環流しつづける《自己》に関する情報を破壊する。身体を少しずつスライスし、皮膚を薄く剥がしとってしまう。だから私は極力用いたくない。

ともかく朝食を軽く済ませ、眠気覚ましに少し体を動かすと、車を走らせた。沿道を眺めれば人はまばらで、そのなかに振袖袴姿の卒業生の女性たちが笑顔で歩いているのが見える。そう、笑顔が見えるのである。私たちはもはやこのちぐはぐさに慣れきってしまって、どこに境界を引くべきなのかを今一つ理解できないでいる。公共施設はあちこち閉館を余儀なくされているようだった。

色々あって、行き着いたのはとある庭園である。屋外に開かれ、人が密集する恐れもないので、休業する必要はないという判断なのだろう。そこにはまだ蕾も少なくないとはいえ、淋子梅が八重に咲きこぼれ、蘭様の甘く青い香りを放っていた。

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時経た枝振りと、苔が穏やかに日差しを受ける幹の美しさ、そして小ぶりながら力強く開く花弁の鮮やかさ。空気は澄んでいて、久しぶりに心地よく深呼吸ができると思った。なにも室内に意図してこもっていたわけではない。書かねばならない書類や、原稿、書評があったので、背筋を伸ばすことすらあまりできないままだった。

 それにしたって、各地異常な事態に見舞われている。
 しかし、空気感染の危険がないため潜在感染者の夥しさにも拘わらず、非常事態などどこにも存在しない
 これは9年前の今頃にあったあの災害とは全く逆なのである。
 各地平常時を保つことばかりに専念していた。それは抑圧的ですらあった。
 繰り返されるCM、次々と展開される非常事態、津波原発事故。テレビの前にいた私はパニックになることすらできず、ただ硬直していた。

そう思わないだろうか、なるほど公衆衛生上のリスクが高まっていることは確かだろう。だが、放射線汚染のリスクが高まった当時の人々の無関心に等しい反応、矮小化としか言いようのない欺瞞を吐く学者たちに対し、マスクやアルコールの買い占め、官製パニックといえる後手後手の対応、そして最悪なことに泣き寝入りを強いられている感染症対策の専門家たち。

しかし、この様な感染症の脅威に関して、リスクの評価はいかになされるべきなのか、そしてそれは認識論的にも義務論的にも、いかに正当化されるのか。また、そこから講じられる予防原則 (Vorsorgeprinzip) に従った対策や、警告は、どこまで正当化されるのか。少なくともリスクという言葉は、Nida-Rümelin et al. (2012) が指摘する通り、多義的・包括的な概念である。とはいえこれを参考に、少なくとも以下のようには言える。*1

R1:リスクを孕んだ決定を下す場面とは、決定の選択肢のいずれもが、発生確率算定を通じ、複数の可能な帰結と結びついている。つまり、不安定な状況下で決定を下すような状況は、その可能な帰結とそれぞれの確率に関して有意味な言明が可能であればこそ、リスクということができる。

これは逆説的なことに、私たちがもはや認識論的にドン詰まってしまうような、算定できないの巨大な脅威――ハイパー・オブジェクト(Timothy Mortonの造語)のようなもの――は、私たちにとってもはやリスクとは捉えられないということになる、そう、かつてジャン=ピエール・デュピュイも、『聖なるものの刻印』(西谷修森元庸介、渡名喜庸哲訳、以文社、2014年)のなかで述べていたように。解決可能――それはつまり何らかの想定可能な帰結を選択できるということに過ぎないが――なことしか、私たちはリスクに感じることはない。したがって、彼岸から訪れるかに見えるカタストロフィは、決して対処や解決の対象とはならない。それは今だ生じず、生じる兆候も見えていないのだから、と。

また、Nida-Rümelin et al. (2012) に従って、さらに次のように言うことができる。

R2:R1の不確定性が単に個人的・主観的な限界に行き着かせてしまうことに起因する場合。

R3:R1の不確定性が、客観的に推定される可能な帰結を、外的文脈を含めてすべて述定することができないことに起因する場合。

結局のところ、リスクとは単なる偶然とは全く異なる概念であるのだ。従って、リスク評価が可能なのは、私たちが脅威の対象について、認識論的にアクセス可能であり、かつ、その脅威の対象の挙動に限って独立した確率過程のもとで記述できる、という二つの条件が少なくとも前提となる。そのような境界画定ができなければ、脅威は地平の彼方からいくらでも訪れることが空想されてしまうだろうし、そのようなホーリズムは竟に黙示録的な世界観の隅っこへと私たちを追い詰めるだけである。損害の算定とそれに対する補償を考慮という、地に足就いた行為は、仮令恣意的であるようにみえても、私たちが取り得る最良の調整である限りは、承認可能である必要がある。

そして、バイオセイフティー (Biosafty) の概念と、バイオセキュリティー (Biosecurity)の概念の弁別分析をここに導入すれば、私たちは新型のウィルスの感性拡大に講じる対策に関して、科学的な究明とワクチンや新薬の開発を促すような「道徳的警告 (Moral Caution)」*2 を発し、そこから資源分配や政策決定の正当性を引き出すことはできるだろうが、他方、もはやウィルスそれ自体とはかかわりなく挙動する人間の経済活動や、種々の集団的活動全てに関して、それを実行的に抑制したり、抑制を勧告することは、主権やその下位機関に過ぎない行政権が行うことは、権利問題として不当なままであると言わざるを得ない。

それを権利問題として正当とする方法は、ただ一つ、大規模な検査を実行し、道徳的警告に認識論的根拠を与えることだけだ。つまり、具体的に特定の人物に対する活動抑制、経過観察下に置くなどの隔離処置は、感染の確定ないし感染の十分な蓋然性が、信頼ある推論に基づいて可能な場合に限るのである。そしてまた、大規模に行えば、統計的にみて集団的な流行が、感染者の分布をみれば構造的に推論可能であるはずで、特定の地域を全体を一時的に閉鎖する処置すら、権利的に正当化可能だろう。

だから、仮令内閣が非常事態宣言など表明しなくとも、検査をすれば済むことなのだ。そして逆に、既に行われている隔離ひとつとっても、いかなる法源に由来するのか、不明確なままであるし、法的根拠が仮に後々構成されたところで、遡及的に正当とは言えず、また、法が義務論的かつ心理主義的な論理を持つ限りで、道徳的に正当化できないような法は、それ自体疑念に付されなければならない。そのような表明は、結局のところ恐怖に根差した心術と、それによる性急な行動へと人々を煽動する瞞着に過ぎない。

どういうことか。Thomas A. C. Reydon (2015) の妥当な定式化に従えば、バイオセーフティーとバイオセキュリティーは以下のように定式可能だろう。*3

  1. バイオセーフティー:バイオテクノロジーによる脅威の原因となる生体を制御すること
  2. バイオセキュリティー:脅威の原因となる生体の制御自体を脅かす諸状況に対処すること

 彼自身が指摘している通り、R2やR3のような意味で用いられるリスク状況に合理的に講じられ得る対策は、予防原則のなかでも1の場合に限り、2の場合はリスクと呼べる事態の境界を制限なく拡大し得るのであり、決して対応できるとは限らない。結局2は人間活動の交雑のなかで、何らかの生物学的基盤・環境に忍び寄る脅威自体から保証されるべきセイフティー技術が脅かされてしまう事態への対処に過ぎず、認識論的に言えば、事前に確定的な行動を選択することはできないし、承認することもできない。一言で言えば、単に不確定な事態に陥っているに過ぎない。従って、リスクに講じられる対策のなかでも2に属すものは、認識論的にいかなる根拠も原理的に持ちえない。

予防接種が原則個人ないし保護者や後見人の選択意志に委ねられているのはそういうことであり、医療関係者がキャンペーンを打って、少なからぬ感染症流行を抑制したり撲滅したりすることに成功しているのは、ひとえにそれが「合理的」であると承認する社会が構成されているからである。

さて、ここまでくると、もはやハーバーマスやデュピュイがかつて議論していたような、権力の源泉と、それを執行する機関の正統性の問題に触れざるを得ない。あるいはより具体的な、長々と続く倫理やリスク管理に際するクライテリアの設定などを巡る議論を記すべきだとはいえ、今はそれはいい。今はカタストロフィの真っただ中にいるのだから。

さて、梅の花を眺め、そして青空の下の茶店でゆっくり甘味でも味わうことにしようと思えるのである。Never mindと言いたくなるような事態。窮地と窮理では、全く意味が異なるのである。私たちが今置かれているのは窮地であり、しかもそれは新たな死神に対する恐れよりもはるかに甚大な未来の喪失を予感させる何かなのである。

私たちは非合理な状況に置かれてしまっていて、そのことに遅くとも9年前から、いやもっと前からずっと気づいていたにもかかわらず、多くの者があまりに長く見過ごしてきた。少なくともかつては科学的にも認識論的にも非合理な状況に置かれた。だが今は不確かなまま、道徳的にも政治的にも非合理な状況に置かれている。この違いは決定的で、身体を浸蝕される死の恐怖とは違い、精神を麻痺させられる暴力の恐怖に襲われているのである。

私たちは、マーク・フィッシャーが言ったように、未来が消えてしまったことに気づく。だが、消したのはまぎれもなく私たち自身だ。そしてそれは亡霊のように、葬ったはずの「思い描いた場所 (tommorow land) 」の到来を、逆に実現してしまうことになる。そんなユートピアへ、今私たちの魂の群れが飛び立とうとしている。

梅は本当に美しい。そして抹茶は本当に苦い。日が暮れれば、風が砂を巻き上げ、少しだけ頬が冷たい。

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*1:Nida-Rümelin, Julian; Rath, Benjamin; Schulenberg Johann: Risikoethik. Göttingen 2012. なお引用は自由訳である。

*2:この概念と、認識論的な観点からその警告を承認しないでいること(disagreement)の正当性については、Matheson, Jonathsn: Morral Caution and the epistemoligy of disagreement. In: Journal of social philosophy, vol. 47 No.2 2016, 120-141.を参照のこと。

*3:Reydon, Thomas A. C.: Epistemologische Aspekte der Anwendung des Vorsorgeprinzips bei Biosicherheitsfragen. In: Ordnung der Wissenschaft 2 (2015), S.73-82. なお引用はパラフレーズである。