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Germanistik, Philosophie(Aufklärung, Phänomenologie, Logik), Biologie, Musik und Kunst

日記

きつい時には独り言が増えてしまうものだが、ブログを更新する頻度が増している時というのは大体そういう時である。Twitterで長い長い愚痴を垂れ流すことは流石に躊躇うこともあるし、こちらに書くことにしようと思った。

 この四連休の間に色々考えた。研究のことも、自分の人生や今向き合わなければならない課題についても。

 夏だということもあって感覚が過敏になっているし、元来の気質から解放的な環境を求めているというのもあって、それと真逆の生活を送り続けなければならないこと自体に嫌気がさしていることを認めることができた。研究を続けるにしても、今のスタイルを続けることはできないだろう。だが何よりコロナ禍というものが私をこの一年半以上にわたって苦しめ続けていたのだと感じる。

 私は移動が好きだし、移動し続けていることで心が多少は休まる。移動といってもただ市バスを巡回しているだけでもいい、ただ外的な環境に身を晒し続けることで適度に心を風通しよくしておきたい。元々憂さが溜まりやすいのだと思う。だから昔から移動し続けながら本を読んでいた。歩いたり、バスに乗ったり、地下鉄に乗ったり、工夫して本を読んでいた。ところが今は移動は自動車がもっぱらで、原資料はインターネット上のアーカイブから拾ってくるから接続環境も重要になるし、色々不都合が多い。私自身の思考が活発化する時というのも図書館の内外を歩き回りながらなので、やはりこれも厳しい状況に置かれている。色々な事情や警戒心や躊躇いが原因となって大学にこまめにいくことが叶わない。

 何か画期的なアイデアはないものだろうか。今はまだ考えつきもしないのだが。

 一番いいのは、本当に稼ぎ方を考え直すということだろう。アカデミックキャリアを本当に自分が望んでいるかと言われれば疑問であり、とはいえ就職への強いこだわりはある。教育への使命感とか研究活動の安定とか、そういう理由からポストを得られることは理想の一つだ。とはいえそこにこだわり過ぎて、自分の人生に対する想像力を貧しくしていたことも否めない。まだ30にもならないのに早々決め打ちして、自分の身の振り方に関してじっくり考えることをしてこなかった気がする。やりたいことがあってそれを実現しようとしている、希望する進路があってそれに進んでいる、それは事実なのだが、そうでない選択肢の広さというものを、全然考えてこなかった。その他の可能性を望んでいなかったからというわけではない。小説書きになりたいと思っていたし、今も思っている。移動し続けられる仕事があればそれが理想かもしれないとはっきり感じたのはしかし最近のことだ。自分が昔、人と関わらなくていいとか、独立した仕事がいいとか、そういうふうに漠然と考えていた仕事へのイメージは、移動し続けられる仕事という別の希望をとても曖昧に捉えていただけだったのかもしれない。

 私はものを書くことも思索に耽ることも、歴史的に物事を調べて考えることも好きで多分自分の才能の一つだと思っている。だが、移動し続けること、新たな場所を目指して進み続けて、できるだけその都度身軽でいることがとても大事なのだ。長編小説を書きたい、だがそれは長編論文を書きたいというのとは全く異なる。論文は短ければ短いほどいい。その方がずっと身軽だ。だが短いからといって焦点を絞っては意味がない。私が欲しいのは多島海を舞台とする海洋国家のような論文なのだ。

 私は風や雲、星々や波、鳥や魚や馬達のように留まらないものと魂を共有している。私は自分に忠実にありたい。だから、何か違う生き方を探さなければならない。しかし生き方なんてものは、単に稼ぎ方、衣食住と贅沢を享受するための資源を手に入れる方法を呼び変えたものに過ぎない。私は労働したい。だが思想を手放すつもりもなければ芸術から離れるつもりもない。

 何か名案はないだろうか。明日も明後日も問い続ける方法はないだろうか、それで今日は何をするんだい、と。