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Germanistik, Philosophie(Aufklärung, Phänomenologie, Logik), Biologie, Musik und Kunst

心象日記

  近頃「日記」と題した独り言のような記事しか書くことができない。それにはさまざま理由はあるのだろう。何より全体へと心が向かっている。根底に降りていこうとしている。フィギュアに欠ける表現で申し訳ないが、私は今動きそのものになろうとしている。羽を広げることもなく、広がっていく。孵化することもなく漲っていく。だからこのような表現を選ぶほかない。動きそのものとして、全ての格が剥離していく。空所だらけの言葉の並びになって私は消えていく。

 私自身のなかにある慢性的な疲労感、憂鬱、言葉にならない認識の光の漣、それらは一日の時間を全てに浸透している。私のなかには一点の曇りもないこの世界に向けられた鏡がある。私は憂鬱だが絶望はしていない。命はいずれすぐに吹き上がってくるだろうと感じられる、そのような微風が自分の周りを漂っている。その風は圧力の遷移に由来していて、神経繊維が少しずつ鎮静に向かっている。これは死を通り抜ける過程なのだ。一千もの天使がその足をレコードの針から離したことで、すでに埃まるけになっていた音楽がレコードを損ねることなく鳴り始める。犬がそれに気づきくしゃみをする。そうして主人が目を覚ます。

 コーヒーは淹れてあるだろうか? 私の目覚めにはそれが必要だ。マンデリンをしっかり砕いて、油をじっくり染み出すようにしてほしい。お湯は沸かしたばかりではダメだ。少し落ち着かせて。ブラックでいい。砂糖もいらない。苦味より、甘味より、透明を味わいたい。水晶体なき視覚。網膜なき視覚。あらゆる接触なき認識。私は身を委ねる。コーヒーはもはや香油のように私の髄をゆっくりと覚醒させる。それで、今日は何をするのだろうか。この選択を私は誤ることがない。誤るとすれば、それは結果に過ぎない。日暮れ、虚しさが全てを肯定する。

 過去に思考が到達しようとするとき、その迷宮の壁には陰謀論じみた問いかけへの号令が絵文字となって刻まれているのに気づく。私は記憶の柱廊を抜け出て、開けた空に包まれた植物園に走り抜けていく。気づけば裸足だった。どこかひび割れた大理石で切ったのか、足の裏からは血が溢れ出ている。私は気にしない。セージやパセリ、ローズマリー、さまざまな薬草がここでは育てられている。香りが虫や獣を寄せない。なぜならここには死者が眠るから。私は聖苑でまだ息をしている。そこに座る。そこで眠る。そこに沈む。

 日暮れどき、四阿に用意された席から立ち上がることができないでいる。蜂蜜酒を持ってきてくれた一人の女が私の腕を引いて立ち上がらせようとする。私はそれを拒絶すことなど権利上できないのだから、再び歩き始めるほかない。もう体は大丈夫だろう。

 私はもう一度初めからやり直すことができる。それは記憶の問題でも、過去の問題でも、そして武器や、これからの戦いの問題でもない。ただ私のこの体の問題である。そのことに気付かされる時、四阿の中央にたった小さな像の意味を理解した。その像には身体が欠けていて、にもかかわらず夕焼けを受けて長い影を落としていた。そしてその影の輪郭に、私は見覚えのある自己相似的な象徴を読み取ることができた。

 貝を貸してくれ。それをそっと水に浮かべると、それは一隻の船に代わる。この植物園の水路を抜ければいずれ大河に行きつく。そこからずっと南西に下っていく。私はそうして純粋に動きへと風化していく。脱ぎ去っていく。あらゆる変形を通り過ぎて生まれ直す。そうしてすでに無人となった船が南洋で座礁している頃には、私は全てを解決していることだろう。

ファイル:Joseph Mallord William Turner 022.jpg - Wikipedia