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Germanistik, Philosophie(Aufklärung, Phänomenologie, Logik), Biologie, Musik und Kunst

日記

シモーナ・ギンズバーグエヴァ・ヤブロンカ、鈴木大地訳『動物意識の誕生』読書会に参加できた。今日はそれだけでとても嬉しかった。他の先生方がどうこの本を読まれたのかも気になっていたし、尊敬する訳者の鈴木さんに直接細かい点で質問できる機会かと思うと楽しみだった。滑り込みでも申し込めたのでよかった。

昨日憂鬱がぶり返したとはいえ、今日は得意料理のカジキマグロのシチリア風とオレンジバジルサラダを作って二人で美味しく食べられたから大丈夫だと思っていた。そのあと少し散歩にも出て、それから読書会だった。

相変わらず人前であることを意識するととても喋るのが苦しくなってくるのだが、それでも聞きたいことも部分的には聞けたのでよかった。参加に先立って、久しぶりにKantのKritik der Urteilskraftを読み返していて、特にG&Jが註にあげていた第二部の「目的論的判断力批判」を重点的に読んでいた。

その中でもさらに絞ると、§64-65あたりの話を二人の著者は引いている(と考えられる)。Kant有機的存在について「自然の所産(Naturprodukt)」でありながら「自然目的(Naturzweck)」とみなせるものとして規定する時、いわゆるnatura naturataとして、受動的で感覚の対象として自然をみなしながらも、自己原因的な関係を有しているものをどう理解するかに苦しんでいる様子が窺える。Kantは明示的に自然をnatura naturansとしてみなすことはないが、als obの理性概念の統制的使用によって二つの「全体」に個物ないし部分を従属させることで、自己原因を因果連鎖に逆行せずに理解しようとしていて、これはつまり階層性を設けることによる回避でもある。

とはいえKantの議論で特殊なのはやはり統制的使用に際しての反省的判断力の役割に関してだったりする。少し遡って§61でカントは以下のように議論する。自然物に偶然的で外的な目的の実在性を帰することができるとすれば、それは構成的であり、一意的に原因から導出される(大なる原因から小なる結果が導かれるような)結果として自然の意図的作用を認めることになる。そうなれば、自然目的の概念は反省的判断力にではなく、規定的判断力に属することになる。しかしKantが繰り返し主張しているように、それは美感的判断における快不快の感情に基づく価値(趣味や美のような)の理解と同じようなものなのであって、敷衍すればアフォーダンスのような環境的条件から導出されるありようの可能性条件すらも、それが陸地と陸棲動物のような関係である限り、主観的な目的にとどまることになる。

では客観的な自然目的とはどのようなものでありうるのかについて、Kantは類の不変性と有機体の自己組織性(自己修復能力)に認めている。彼は木を例に出して、木が木を生むこと、木の部分である葉が木の生命の条件になっていることなどからこうした議論を進める。このような議論は種の理解や、adaptationの議論に似ているので、どのようにそれらの現代的議論と異なるのかを慎重に扱わないといけないのだが、今はとりあえず置いておこう。