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Germanistik, Philosophie(Aufklärung, Phänomenologie, Logik), Biologie, Musik und Kunst

日記

日記を書くのはいいことだ。私は日記をつけるのが得意ではなく、というのも一日の出来事を振り返るというのは一日の出来事を全て書き記すことなのか、あるいは一日の意識的経験を書き記すことなのか、それとも評価を連ねていけばいいのか、一言で言えば何を書くべきかが分からなかったからだ。

 しかし日記に書くべきことは、書き残しておきたいことだけであると理解したので、これからは書き続けることができるだろう。

 今日は昼にも素揚げ野菜のうどんを作り、夜にはアヒージョを作り、ともに成功した。美味しいご飯を振る舞うというのはニーチェ的な喜びではないだろうか。しまいに自家農園で採れた野菜とか果物を振る舞うようになったら、それは石をパンに変えるようなことで、ニーチェ的な貴族の喜びがまさか一転してまうかもしれない。美味しいご飯を振る舞ってもらう喜びは、歳をとってからでいい。そのようなことをしてもらえるだけの人生を送って生きたい。救いを求めるにはまだ早い。

 幸福を求めるにはまだ早い。幸福という概念はし尽くしたと言える時に初めて問題になるのであって、私はまだ到底し尽くしてなどいない。しかしステップを踏んだ適度なリズムの報酬が無ければ枯れ死んでしまうので、幸せというものを誰もが30前後で感じたいと思うようになるのだが、適度に疲れを取ればそれも忘れよう。第一、人生に幾らか大きな目的があるとして、しかしその根底には一つ食べて寝るという生存の目的があるのだから、それが例えば何時に食べて何時に寝るというふうにリズミカルな生活時間の指標になることで、十分適度なリズムで報酬がやってくる。

 問題はその質ないしは報酬の量と機会の多彩さということにもなるので、先行する投資が不可欠になってくる。資本の量がものをいうのはつまり、質的であれその数量的な評価であれ、人を自らの行為や再帰的な自己規定に際して差異化へ駆り立てることができるかどうかということになる。昨日の読書会で理解が難しかった機能情報の概念を説明してもらう際に、「違いを生む差異」という情報の定義を思い起こしてもらって納得したのだが、その言葉は情報だけでなく資本にも当てはまるだろう。

 資本は情報とは決定的に異なるはずだ。企業活動にとって、不完全であれ完全であれ情報というものが手元にあれば、情報は資本とは別に行動選択のために用いられる。他の産業や企業においてイノベーションが生じることがあるわけだから、環境と情報の間にタイムラグもある。しかし資本については知り尽くしてなければならない。もちろん知り尽くすことはできないのだが、資本がそれ自体独立に突然変異を起こすことなどない。資本はただ増殖したり減少したりすることしかできないし、意味論的な次元もない。だから多分情報を上のように定義するのは十分ではないだろう。

 ところでNelson and Winterが主張したようなルーティンから生まれるイノベーションというのは、新規開拓するようなイノベーションとは異なって、生産手段の変化という形で現れるというのだが、それを仮にMokyrのmicroinovationと同一視できるとしよう。これはしかし生産手段の洗練によって可能となるreturnというのはdiminishing returnが起きるように思われるわけで、それをmacroinovationと区別せずに理解することはできないように思える。

 だがやはり逃れ難いのは以下の現象である。ある産業は、その市場に一定の頻度で現れる新規参入する経営体と去っていく経営体がそれぞれ市場にもたらす産出量の加減によって集計産出量が決定され、その成長率が導出されると、賑わっているかどうか判断できる。そして新たな産業分野は参入率が高くとも中期的には退出率が多くなり、長期的には一定の均衡状態が訪れる。

 成長率が鈍るというのは産業間の構造的変化が必要になっている信号かもしれないだがどちらにしても差異化の限界とこれを解釈すれば、私たち自身の実存的なレベルにも存在する危険が案に示されていることになるだろう。私たちはhomo sapiensという生物学的種を一つのユニフォームとして纏うことはできそうにない。その限りで、その動物種のインスタンスインスタンスであったところで、その固有名を引き受けることなどできないのであって、representation以前に、任意のヒトはhomo sapiensのインスタンスたり得ない。まるで統制原理に従う自由な理念に過ぎないかもしれない。リンチの『イレイザーヘッド』が不気味にも作り出した人ならざる姿をしたこどもというのは、こうした事態が時に人を底知れぬ不安に陥れることにつながるからだろう。

 とはいえ事態が複雑なのはインターセクショナリティである。それは大雑把に単一のカテゴリーで語ることのできない、複層的な(しかし癒合している)カテゴリー使用によって可視化が困難であるような抑圧や特権が存在することを明らかにしようという試みが作りだした外縁である。インターセクショナリティは実際上の対策を練り上げるために必要な概念である。この概念については下記の論文でも簡潔に解説されている。

Jenkins, Katharine. "Conferralism and Intersectionality: A Response to Ásta’s Categories We Live By" Journal of Social Ontology, vol. 5, no. 2, 2019, pp. 261-272. https://doi.org/10.1515/jso-2020-2004

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 疲れたので続きは明日以降。