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雑記 May. 2022 #2

何の関連性もない雑記

Twitterはますます殺伐としていて、それでも侮辱罪の成立は大して話題にもされていない様子であることに暗澹たる思いだ。人々はことあるごとに自分の発言権を奪われることに拒否反応を示す。自らの発言内容が肯定されたり否定されたりすることではなく、自分の発言にスペースが用意されていることに拘っているように思う。こうしたことは繰り返しここでも指摘してきたかもしれない。とはいえ侮辱罪については、散漫漠然とした人権意識によって対して疑問に感じられていないのかもしれない。確かに悪辣かつ暴力を極める誹謗中傷に対して何らかの法的な対処を求めるニーズは高いだろう。とはいえそれが今回の法律によって適切に叶えられるとは限らない。それどころか、という懸念はある。悪様に罵倒することは今ではかなり醜悪な行為として人々に不快感情を喚起するようだ。

「言葉の暴力」という言葉には注意したい。言葉はそこでは随分とデフレに陥っている。というのも実際に言葉が行為でもある以上、「言葉の暴力」と言われるのはおそらく「行為の暴力」に過ぎないからである。言葉といっても、単にネガティブ感情、あるいは相手の存在を貶めるための空疎な述語で十分なのであり、兎にも角にも執拗に浴びせかけられると、その執着と憎しみを感じることによって大きく健康が損なわれる。つまり繰り返すことが問題であり、常習性というのは確かに犯罪の主要な性質として考えられている。というのも、どうやら常習性というのは、意味的に空虚な行為を信じることを可能にするからである。その行為の具体的な内容は、多くが引用符に囲われていればいい(つまり本来的に信じるに足らない受け売りの言葉ではある)が、しかし常習性はどうやら引用符を除去し、自らの空虚な意味を引き受けることを強いるように思われるからである。

ところで呪いとは大体そういうものでもあるし、嘆願もまた同様だろう。であれば、神という存在もまた、人々を疎ましく思っても不思議ではない。神は支配するかもしれないが、絶えず地上においては向け用ガなくなった暴力の負荷に晒されている。幸福な帰結を願う言葉にすら腐敗を感じることになるのは、神が分け隔てないのなら当然のことだろう。

例の事件

山口県の阿武町で、新型コロナに関連する特別の給付金463世帯分が一人の若い男の口座に誤送金されたことから始まった一連の出来事を目の当たりにして、いくつか思うことがあった。

1) まず送金された口座の所有者が、その金を全額一つの慈善団体に寄付した、もしくは小分けにして複数か多数の慈善団体に寄付した、という展開だったらどうなったか。
 1-a) 福祉サービスを提供する比較的予算が不足している団体を中心に金額をバラバラにして送金され、本名もわからないように工夫されていた場合、しばらく時間的な猶予がある間に何らかの使途に当てられてしまっていたらどうなったか。

2) 実際にインターネットカジノにつぎ込んだとして、大当たりを繰り返し、元金を大きく上回り、所有者は元金だけを役所に返金する意思を示し、また実際に返金した場合。2-a) 元金の返金だけでなく、儲けた余剰分も全額寄付するという意向を示した場合。

3) 何らかの政治団体や宗教団体へ献金されていた場合。

いずれにしても逮捕されたのかどうか、原則現在公表されている罪状に従った手続きがなされるべきであるとしても、現に生じた帰結とは別の帰結がありうるかもしれないが、そのありうるかもしれないという感覚は、同時に容易に裏切られるかもしれない。また税金の問題も別にある。

 

 

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