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Germanistik, Philosophie(Aufklärung, Phänomenologie, Logik), Biologie, Musik und Kunst

日記

雨が続いている。この地方の大河川も多くが氾濫危険水位に達しようとしていたし、隣接する市の主要な河川が大体どこも警戒が必要な状態に至った。昨晩は雨脚が弱まり、よかったこれでことなきを得るだろうと思うと、途端に雨脚が強まるという繰り返しだった。そうした不安があったからか、今朝は完全に睡眠に失敗していた。未明に腹痛で目を覚ましただけでなく、何度も何度も。もちろん某YouTuberの差別発言の件もあった。穏やかではいられない状態に引き摺り込まれたので、しばらくやはりTwitterを開く時間を大幅に減らそうと決めた。

 それにしてもこんな時にも花火を打ち上げている人たちがいるらしい。花火大会を開いたところで人が集まらないことが決まっているからこそ、どこか可能な瞬間を見極めて打ち上げ、どこか誰か遠くから眺める人に呼びかけているのかもしれないが。ついさっきまでどんどこどんどこ打ち上がっていたようだ。爆音だけが我が家に飛び込んでくる。

 昨日はいろいろ忙しく、今日はその疲れもあったりで調子が上がらなかった。既に書いた通りだ。だからと言って研究を放置することができるほど余裕なんてない。スケジュールに追われる時期がまたやってきた。論文や発表原稿や、いろいろ書かなければならない。どの機会も大切にしたい。手を抜けないが、手を抜かずしてこの程度かとため息もついてしまう。

 とにかくできることをするというルーティンに集中するため、いろいろな事柄に引きずられないように。

 

 ところで最近は生物学的機能の概念に関する哲学的なエッセーを読むことが多いわけであるが、しかし機能の規範性というのを考えるとき、それは機能の説明に役立つとしても、機能が実際に作動している形態上のメカニズムに対応した説明ではないように思える。例えば鼻がここにこのように存在している、というのを機能という概念で説明するのは問題ないだろうが、その機能を列挙していくと、様々な制約の中で形態が「押し出される」ようにして決まっていくのではないかと、少なくとみえることはみえる。それは鼻に眼鏡をかけることができること全く異なるのだが、この対比が機能と偶然を分ける基準の決定に何か貢献するような対比とは思えないわけで、形態発生上どのような機能的序列があるのかが重要なのではないかと思える(例えば胚発生以後、臓器が形成されたりなどの過程には歴然たる序列がある)。確かにそこに対応する必要はないかもしれない。しかし目的因のような"backwards causation"を認めないために色々な工夫を凝らしても、その対応がないために十分機能と偶然を区別できないのではないかと思える(だから規範性を導入するのだろう)。だから目的因を導入すべきと言っているわけではない。むしろその対応関係を可能にするような概念を導入すべきと思える。このような見解は実のところ歴史的に見ると様々いい点も悪い点も見えやすくなるのではないかと思っている。今はそのために原稿を書かなければならない。