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Germanistik, Philosophie(Aufklärung, Phänomenologie, Logik), Biologie, Musik und Kunst

身体が痛い

連日の雨、各地で土砂災害や水害が発生しており、災害が発生していることを認定する制度の存在論的な意味が気になったのはもうひと月ほど前のことかと考えているうち、気分がどんどん塞いでいく。日照時間が短いとどうしても私の場合すぐに体に反応が出てしまう。体が重く痛くなる。痛みというのは古傷が痛むとかそういうものではない。重苦しさの延長にある痛みだ。意欲も削がれてしまう、計画が狂ってしまう。悠長にはしていられないので、とにかく起きて活動するしかないが、パソコンの前で集中力に書いている自分にうんざりするのが関の山である。

 こうなるといよいよ退屈が身に染みるようになる。自分は何かに囚われすぎている。心ここに在らずの状態が、日々の活動の中で持続している。それは日々の活動のせいといえばそうなので、趣味とか料理とかいらないから、研究に没頭できる状態が欲しいと切に願っている。しかしそうはいかないので、日々の営みに楽しさを見出さなければ本当に参ってしまうので、そういう意味で「遊び」とか「余地」みたいなものをそこに見出していく必要もある。

 濱田さんの『暇と退屈の倫理学』を紹介するVlogを見て、以前お話ししませんかと誘っておきながら先延ばしし続けていることを申し訳なく思って、またぼうっとしてしまう。國分先生のこの本に関しては、色々と意見もあるのだが、どうにも根拠病にかかっている今、ラフに話すのも少し気が重たいので、回復してきたとはいえまだまだ精神的に不安定だと感じている。

youtu.be

 とはいえこの動画で十年前に読んだ本の内容をいくらか思い出すことに成功した。それ以上にやはりどのような意見があるのか、幾らか思い出すことになった。

 まず概念の使い方について疑問点がある。何より環世界Umweltの概念についてである。ユクスキュルJakob von Uexküll (1864-1944)は動物学の研究から、機能環という概念を考案し、個々の種類の動物が、自らの知覚世界と作用世界が環世界構造を構成しているというのが彼の見解である。だからユクスキュルは確かに『生物から見た世界』で、自然の主体性と人間の主観性の間に何重もの環世界が存在すると主張している。つまり、音響学者にとっての音楽と音楽家にとっての音楽は、同じ空気の振動を対象にしているようでも違うのである、というように、ある種の存在論的な含みが環世界の概念にはある。

 

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機能環を説明する図式

 ところでハイデガーMartin Heidegger (1889-1976)がユクスキュルのこの概念を『存在と時間』の中で批判しているのは有名な話だ。彼によればこの概念は生物学主義的で、自らが提案しようとしている世界Weltの概念とは異なるものであるとキッパリ述べている。確かに世界概念もまた現存在を取り巻く道具存在の連関と解釈される限りでは、働きかけ(対象化)を可能にする世界の実在論的な構成を主張しているようであるし、環世界の議論とどう異なるのか一見わかりにくいが、そもそも環世界の概念はユクスキュルが動物学者であることからわかるように、生物学的な制約を前提としているわけであって、ヒトがたまたま複雑な文化現象を見せるために環世界の概念は上書きされてしまったように見えるが、動物と人間の環世界の間には生物学的基盤を通じたアナロジカルな関係があるはずで、それが故にハイデガーの人間と動物を断絶させる見解と決定的に相違する。そして明らかに世界概念にはこのような断絶が前提とされている。

 従って、動物学と人間学の対立のようなものがここにあるように思えるし、シェーラーMax Scheler (1874-1928)は『存在と時間』の理解者として感動的な賛辞を手紙に書き綴ったハイデガーにとって人間学が近しかったのではないかと思うのは無理ではない気がする(しかしハイデガーが哲学的人間学に取り組んでいたとみなせるかどうかは論争的であるので明言を避けたい)。もちろん生物学的な知見を多分に取り込む傾向が昔からあった哲学的人間学の伝統にハイデガーを数え入れることは、彼が生物学主義を批判している限りで無理かもしれない。だとすれば単純に神学的だったのでは、とつい言いたくなってしまう。

 だが、厄介なのは彼がそれではアリストテレスをどう読んだのか、ということが生物学主義批判を強調しすぎると途端に闇に隠れてしまうという点だ。ハイデガーは所詮アリストテレスから自らの真理論を引き出すために用いたにすぎないのだろうか。ハイデガーアリストテレス解釈については日本語で一冊研究があるみたいだし、また読んでみないとわからない。

 さて、こうしたことをつらつら考えているとこんないっぺんの論文が日本語でも見つかってしまった。やはりハイデガー研究に関して層が厚いと思わされる。

小林睦「ハイデガーと生物学:機械論・生気論・進化論」

doi.org

 ざっと読んで見るとこの論文にも幾らか素朴な疑問を生じてしまうので、それについては今度にしようと思う。

 話がどんどん退屈から逸れていってしまったが、ひとまずこういう概念の使用や解釈の問題が今はまだ不分明なので、もう少し整理したい。そうでないとまだ退屈について語ることができそうにもない。