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Germanistik, Philosophie(Aufklärung, Phänomenologie, Logik), Biologie, Musik und Kunst

開き直り

疲労が蓄積しているのか(しかし私はなぜこれほど疲れているのだろうか)右耳の調子が時々おかしくなる。昔塾講師のアルバイトをしていた時にも一度右耳は軽い難聴を患ったことがあり、ステロイドを一定期間服用することでことなきを得た。その直後、さらに左耳も聞こえがおかしくなったが、手元に残っていたステロイドを勝手に飲んで知らないふりをしているうちに回復したことがあった。ああいうことはしてはならないが、不安ですぐに飲もうと決断してしまった。聴力を失うことは、本を読むのが仕事である以上視力が重要であるものの、視力を失うことと同じくらい恐ろしい。私は音楽を愛しているし、愛する人の声が聞こえなくなることは耐え難いことだろうから。

 今右耳は気づくと回復しているし、詰まった感じ、耳鳴りというのが1日以上続くこともないから問題ないかもしれない。精神的に不調だと視界が曇ることが多いが、それと同様に聞こえも判別に苦労することがあり、耳の不調はそういうことと関連しているのかもしれない。憂鬱が晴れて1日続くことがない。不安や理由もない悲しみが1日以上続くことは当たり前である。動くことができる、本を読み文章を書くことができる、どうしてできるのかわからない。できるのだから大したことはないのだ、現に薬だって(酷い時に比べレバ)大した量を飲んでいるわけではあるまい、眠ることだって多少不器用な感じもあるができている。それはそうなのだが、なぜ休むことを許されないのかと思うほどではある。休むことができない。そう感じるの私が怠惰だからなのか。それとも本当は休むべきなのか。何かを消耗させて生きているのではないか。そんなこと考えたって仕方がないのだから動く。動くだけ。動いている。何が悪い。研究(進みが悪いとはいえ)の他に、仕事だってしている(期限を破ることはない)。

 この世界には二つの不条理があり、その二つが出会うことで悲劇が生じる。他の誰もが得ているのに自分だけが不足している、という妬み。他の誰もが免れているのに自分だけが被っている、という僻み。こういう感情を抱いてしまうこと自体が不条理だと思わないだろうか? 事実はどうでもいいのだろう。感情がここまで根深くなるのは社会構造に起因する部分を理解せず、また自他の区別が十分についていないことがありそうだ。だがそういう感情を片方、もしくは両方抱いてしまった人がいたとして、それをその人の問題に還元することも当然できない。そうではないことを伝えることがその人を救うことにもなる。自分の人生を振り返ってわかることなど僅かなことに過ぎない。ライフヒストリーの帰結、あるいはコンプレックスの解消としての劇的な転落。そのような開き直った行動はしばしば他人を巻き込む。人を殺すかもしれないし、金閣寺を焼くかもしれないし、駐屯地で演説後に自決するかもしれない。自分の人生、あるいはそこで培われた感性を疑うことのできない人だけが陥る解決法。あなたがどんな人生を経てこようが、裁かれなければならないことはある。そうやって突き放すことが必要な時はある。どんな人生を経ようが、報われなければならないことも逆に言えばある。それが生まれ変わる希望だろう。

 空白がある。それを埋めることができるのは、記憶やそれに基づく想像力だけではない。社会がどのような歴史のなかに置かれていても、全く別の世界を構想することができないはずがない。空白は理念で埋めることもできる。そのような理念は社会的現実としての理念だ。社会的現実は確かにXを必要とすると古典的な議論は主張するだろうが、しかし私はそう思わない。Xがないところに作ることができると考えるのはユートピア的に過ぎないかもしれない。だがXが存在していたときにこそ私は恐ろしいと思う。目的としてあまりに具体的になりすぎるからだ。Xの事実としての強度がバラバラの固定観念を生む。

 例えば終戦後、戦地で死ぬことができなかったことを後ろめたく思っている者がいたとする。そのような人物にとっての空白にはXが存在する。そのXに絡みつく彼自身が一種のCとなってそこに共同的と思い込んでいるような理念が投影される。それは幻想に過ぎない。彼はそうやってXに投影した社会的価値のために自らの命を投げ捨てる方法を探り続けるだろう。そうやってXをCの中に固着させ、常にYとして顕現させることを望んでいるのだ。

 英雄を全て葬るべきだろう。そんな連中は開き直りに過ぎない。

 Xに吸い込まれていく運命と同一視された歴史が英雄主義の手に渡った後に、一度歴史を終わらせる。歴史はその後もう一度組み直されることになる。Xに吸い込まれるのではなく、Xから物質の吹き出てくる光景ように組み直される。いや、これは無念だ。同じことではないだろうか。過去を消すことはあってはならない。そして過去から鍛造されるべき倫理はあるだろう。だがその倫理は多くの制約を飲み込まなければならない。だから過去が歴史ではなくなり、歴史が過去ではなくなり、歴史が単なる現在でしかなくなる世界というのがもう何十年も続いて、権利問題が事実問題の肩口から指揮棒を揮っている。これが自然に帰することを望み続けたある種の「哲学」ではないだろうか。だが実際は自然に帰することを望み続けて、自然の絶滅を加速させているだけだろう。そのような「哲学」を私はボナパルティズムの哲学と呼びたい。そのような自然に帰することを望む哲学はこっそり英雄の帰還のために搦手の錠前を外している。

そういえばこんな記事もあったのだった。

db.10plus1.jp

Träume, Utopien, Visionen und Territorien: Annotationen zur Napoleonischen  Ikonographie 1814–1941/44