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Germanistik, Philosophie(Aufklärung, Phänomenologie, Logik), Biologie, Musik und Kunst

日記:シェリングについてメモ

今日は一日眠気との戦いでもあった。よく眠れなかったのか、疲れが溜まってきていたのかわからないが、いずれにしても睡眠時間は短かった。コーヒーを飲んでもしばらく醒めたかと思うと急に強烈な眠気がやってくる。そんな感じであまり思うように物事進められなかった。

 しかし昨日はいつもお世話になっている方と大事なメールのやりとりがあったし、生物学基礎論研究会で紹介していただいた研究者と共同研究をスタートさせたし、それだけにエキサイトして疲れたのだろう。今日も歴史の概念について彷徨っているうち、シェリングを読み返し、そうしているうちにシェリンギアンとラインのやりとりをした。

 とはいえ種を蒔いているだけではダメな時期なので、とにかく書き進めていかなければならない。収穫の時なのだ、今は。遅れてはならない。

 それでまたメモを少しとる。シェリングの考え方が極めて示唆的であった。ヘーゲルが新制度派から神経経済学までを包括的に論じようとする野心的なヘルマン・カルステン=ピラートとイヴァン・ボルディレフの霊感の源泉となったとしても(『現代経済学のヘーゲル的転回』のこと)、私はより歴史制度論を今は好んでいるので、シェリングが霊感の源泉になる。特に『超越論的観念論の体系』System des transcendentalen Idealismus (1800)と『学問研究の方法についての講演』Vorlesungen über die Methode des akademischen Studiums (1803)において説かれている歴史、そして国家についての見解はとても優れている。

 これに関して日本語で読める信頼ある優れた研究として、中村徳仁さんのこの論文を一応リンクしておく。私も勉強させてもらいました。

doi.org

 それでシェリングが具体的に制度論に踏み込んだことを言っているかといえば、全くそんなことはない。ヘーゲル法哲学などで具体的な議論をしている一方、シェリングは抽象的で散発的に見える。だが、それでもシェリングの歴史概念の規定は役に立つ。
 簡単にいえばシェリングにとって歴史とは第二の自然の在り方であり、第一の自然、つまり物理的に現象しているメカニズムとは異なって、演繹的にアプリオリな原則から知ることのできない別の高次のシステムである。歴史はしかも神話や叙事詩と連続的で、それだけに人々が類として共に作り上げるものであって、個々人の意識にはそれを規定する権原は無い。人間にとって純粋に客観的な歴史があるとすれば、それはある時には運命、ある時には摂理と呼ばれるものである。
 そうして個々人を超えた力を含めて、集合的に制作される歴史とは、シェリングにとって理念的な法体制(Rechtsverfassung)の現実化を意味している。従ってシェリングにとって歴史とは、人類の進歩(Fortschritt)の尺度であり、制度変化の動態そのものなのである。ここで進歩という語が出てきて警戒するものもいるかもしれない。ここには目的論的な歴史観があるので、この語は当たり前のように存在しているわけだが、その目的が何かといえば自由と必然の調和である。そして普遍的な法体制はその条件となるものである。あくまで実際的(pragmatisch)な歴史や法体制がここで問われているわけではない。

 シェリングの理論と経験の対立から言えば、歴史は理論と経験を振り返る形で調和させる。そして法体制は前向きに調和させている。どういうことかといえば、『自然哲学体系の第一構想』でシェリングは理論は原因を見て経験は結果を見るが、それでは自然の動態、特に有機体のことを理解できるはずがない、というわけだが、シェリングにとって歴史も組織(Organisation)としての国家もその意味で有機体と同一視されねばならない(理念的には)。

 などなど、そういう風に思想を追っていくと、ここに意外なほど共同的な存在としての人間が自然と制度の間でどのように行動(Handeln)するかを考察している。というのも、人間も有機体である以上、Handelnが外的な物理世界と感覚世界の狭間にあって、その可能性の条件でもあるからだ(図式論的な)

 まあ他にも書かれるべきことはたくさんあるだろう。本当はブログを書き始めたタイミングではシェリングについて書く気はなかった。

 制度論いついてさらにメモを取ろうと思っていたのだが、次回にしよう、