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Germanistik, Philosophie(Aufklärung, Phänomenologie, Logik), Biologie, Musik und Kunst

はしがき

何の関連性もないはしがき

 

  • 誹謗中傷は日々絶えず現れる。特定のワードを禁止することは、悪質な差別扇動を封じたり、世の中に根強く残る偏見に対抗する上で一つの方策たり得るが、問題はそのような言葉を封じることが誹謗中傷を吐いてしまう人々の心のありようを変えることがないということであるというのは、もはや誰もが認識していることだ。誹謗中傷はしかし、一般に単なる名誉毀損や侮辱、あるいは脅迫などいくつかの種類に分類されるだろう。名誉毀損は明らかに社会的な評判を落とすための宣伝や、事実と反する悪質な情報を特定の人物に帰する行為によって、その人物の社会的な地位を損ねるなどして損害を与える行為である。この時の被害はその損害を賠償請求することで賄うことができる部分と、そうではない部分がある。現在は情報流通は凄まじい規模であり得るので、デジタルタトゥーなどに対処してもなお、名誉毀損は単なる金銭上の賠償では解決できない痕を残すことが容易に考えられる。またその間の心理的な圧力は、社会から疎外され、放逐される不安と隣り合わせであるだろう。他方侮辱は直接対峙する人物への反感などとして、怒りや悲しみ、幻滅や失望に関係する。そして脅迫は脅迫に続くと予測される最悪の出来事から喚起される恐怖である。これら三つは現象として全然異なる被害をもたらすだろう。とはいえ、これら被害は一貫して自己の無価値化に関係している。その価値が準拠するのが、社会的な評判なのか、あるいは自己に対する肯定的な感情なのか、あるいは自己の身体や、自己と密接に関わる財や関係なのか。いずれにせよこれらは失われたり損なわれてほしくないと誰もが思うものであり、それを破壊したりそうする素振りや宣告を見せることで、他者を無価値化するだろう。だから誹謗中傷はその意味で通例言論の世界で交わされる批判とは全く異なるものである。ただしレトリックの問題もここには存在するので非常に厄介なのだが。重要なのは、誹謗中傷は基本的に価値感情を傷つけることで、他者に罪責感情を抱かせることで完結する。つまり誹謗中傷された人物が実際に何らかの価値の拠り所を損なわれたと感じたり、損なわれてしまったり、あるいはその責任を自己にあると感じてしまうことによって完結する。もちろん誹謗中傷は被害者の死をもってすら終わることはない。それは社会的に残されたもの、物理的に、あるいは人間関係において残されたものを全て消し去るまで止むことがない、原理的には。だから誹謗中傷を止めることを試みるためには、そうした悪どい事態が生じていることは全てその言葉を発している人物の思考や心に全て原因がある、端的に言って妄言を吐いているに過ぎないということを自覚させるしかないのだが、問題は妄言を吐いている人物はどんな形であれその悪どい事態の責任が自分にあるとは決して考えないということだ。そんな考えを持ち合わせることなど決してない。結局彼らの思考は全て予め序列が決まっている。誹謗中傷に明白な原因がないとき、誹謗中傷にも具体性が欠けてくる。その具体性の欠如の原因は、誹謗中傷を吐いている人の思考の中に存在する序列を、その形のままに表現しようとしているからであって、その序列は骨組みしかない。だからどんな言葉であれ、相手の地位を貶める言葉であれば彼らは口にするが、どんな根拠も提示する必要ができない。結局特定の言葉を禁ずることは、差別や偏見への有効な対処であるにもかかわらず、彼らの汚染された喚き声を止めることはできない。身体的・物理的な介入、言ってみれば外科的な介入しか本当の手立てはないように思われるが、他方で被害として想定される、つまり彼らが損ねようとしてる価値を保護する方策もあり得る。実際そうすることは重要だ。だがその価値の保護が、特定の価値を同じように固定化することもあり得るわけで、保護する方策をとる人々はできる限り思慮深くありたいと思うため、そのような固定化について吟味せざるを得ない。とはいえ公的な処置を通じた保護はより容易だ。
  • 他人から「お前の家を燃やしてやる」「お前の家族を刺し殺してやる」と言われたことはあるだろうか。私はある。その時に感じた戦慄は今でも忘れられない。とはいえ夢に見ることはもはやないし、今ではそのことはあまりに現実離れした出来事であるかのように感じられている。こうした事態に遭遇した場合、二つの考えが浮かんでくる。まず、本当にそんなことをされたらどうしようか、どう防げるのか。次に、こんなことを言われてしまう自分が悪いのだ。だから即座に誰かに相談できるわけもなく、またこれまでも結局相談したことはない。確かにそのようなことを言う方がおかしいのだ。どんな状況であれこんな言葉、こんな脅迫をできる方がおかしい。だから脅迫を受けた時には、自分が悪いと思ってはいけない。しかし脅迫は相手に自責の念を抱かせるための効果的な方法の一つであることを忘れてはいけない。相手は自責の念を与えようとしているからこそそんな言葉を吐いている。白を黒としたいからなのである。だから脅迫されるに至ったことを誰かに相談したら、結局自分がより窮地に立たされるようなことになるのではないかと考えてはいけない。脅迫は刑事罰の対象になる。それほど悪質な行為である。従って記録を手に被害届を出すことを考えてもいいほどだ。もちろんそこまでできないならできないでいいのだが、自責の念を与えるための脅迫を誰にも相談しないと言うこと、恐怖を抱え込み、また恐怖に屈することは、相手の思う壺である。ただし、脅迫されたことを相談するためには、どうであれ心理的な抵抗をやはり越えなければならない。頭で理解したところで、実際に脅迫されていることを恥じたりするのは仕方なくある。日頃からよほど信頼がある関係においても難しい。これは詐欺被害者にもよく認められることである。
  • 脅迫は実際詐欺に似ている。信頼を逆手に取る裏切りである。ただし詐欺は相手から金銭など、直接的な利益を詐取することで相手の関係を解消するのだが、脅迫は搾取を通じてより深刻な関係を構築していこうとする支配の行為でもある。抜け出すためにはその裏切りを、裏切りだと確かに主張するための心理的な克服が求められるのだが、それがどれほど難しいことであるかは言うまでもない。

こうした事柄について考えることは、メンタルヘルス上の問題に少なからぬ影響を与えるものであるが、それが良いものか悪いものかは難しい。

メンタルヘルス上の問題というのは、本当割り切り難いのだ。精神疾患を患ってしまうというのは常に山脈の尾根を歩き続けるように運命づけられてしまうようなものだ。