anti_optimized haunted processor

Germanistik, Philosophie(Aufklärung, Phänomenologie, Logik), Biologie, Musik und Kunst

はしがき

何の関連性もないはしがき

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  • 相手の主張の価値を認めないことは、主張内容が誤りであったり不適切な推論に基づいていたりするなどして認識的価値を持たないことを示すことになる。しかし主張するという行為は、主張内容を伝達することに限らず、何らか見解を示したという行為自体がもたらす、主張者の社会的な貢献に関連する諸価値を引き寄せる行為でもある。従って、主張内容が他者の検討を通じて否定されることになった時、主張行為自体も遡行的に無効化される限りで、認識的価値以外の価値、例えばそれは名誉であったり貢献であったりする価値がともに消失することになる。つまり、誰それがその主張を否定された時に怒り出したとしよう。主張内容を退けることで侮辱されたと感じたとしよう。だが彼の受け取り方は一面では擁護可能であるにもかかわらず不適切である。つまり主張内容を否定することは侮辱ではないだろう。しかし名誉などの価値を否定している。しかもその主張内容が極端に悪質である場合は、その場から退場することを求められるだろうが、これは脅迫であると彼は感じるだろう。確かにそう感じるかもしれないが、そのことによって喚起されるはずの不安、幻滅、恐怖などの感情が彼を苦しめることはない。むしろ怒りを感じている限りで、侮辱を感じていると考えることができる。もしそうならば、その主張者はおそらく主張内容や主張の資格に関する諸々が喪失されることよりも、主張したという行為によって暫定的に獲得した(見せかけることができている)人格的な徳を、再度無効化されたと感じていることになるだろう。つまりそのような人物にとって、何らかの見解を提示することは、役割を全うするとか、自らの卓越さを見せるための素振りであることになる。そのような見解の持ち主というのは、たいてい独自性や創造性のある新しいアイデアを提示することは少ない。むしろ有効であろうともやは無効であろうと定説を掲げるのが常であり、あるいは自らの思い込みである場合もあるが、いずれにせよ揺るぎないと思われる前提を繰り返す。そのような前提は彼にとってもはや覆し難いのだが、その覆し難い主張を掲げることこそが、彼の公然と承認された権威的な振る舞いとして価値あることなのである。この点に注目すれば、なぜ差別扇動や偏見の主張を消し去ることも、誹謗中傷を消し去ることも困難であるかについていくらか見えてくることがあるだろう。つまり、そのような悪辣な主張やデマを喚き散らす人々は、そうすることが自らの美徳であると思っているし、それは正義とかそういう言葉と関係ない(つまり悪を糾弾したいとか公平性を主張したいとか、そういう動機ではなく)。彼らはより大きな社会の利益を求めているのではなく、自らの有徳性を示したいのであり、そこで喚かれている悪辣な主張を否定することは、その内容よりもその態度を糺す行為であるように受け止められてしまう。しかし彼らは主張内容の誤りを認めることは簡単であり、主張内容の誤りとは関係なく、排除したり攻撃したりしたいと思っている対象を貶める言葉をどこからでも作り出すことができ、とにかくそのような攻撃的な態度を誹謗中傷を通じて示すことこそが、自らの強さを誇らしげに見せつけることになると感じている。無残だが、彼らには知性など何一つ関係がないのである。