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Germanistik, Philosophie(Aufklärung, Phänomenologie, Logik), Biologie, Musik und Kunst

記録:Martin Mulsow (2022) Überreichweiten.

読んだ本や論文、もしくは読む必要がありそうな本や論文をここに記録することにした。これまで無数に読んできたのだし、これからも無数に読むのだからこの記録に始まりも終わりもない。記事一つにつき一つ。これは決める。一日にいくつも更新することもありうるが、それで構わない。元々最近の関心は何かを知られないように控えようと思っていたことではあるのだが、こうしておくことで一定のモチベーションを維持する必要が出てきた。なお、それでも全てがここに記録されるわけではなかろう。多くは結局紹介するに値すると思ったものに限られるかもしれないし、逆に批判すべきと思ったものも加わるだろう。いずれにせよ追加情報を求む。つまり、もしこれからこのカテゴリーの記事を読む人は、関連する情報や自らの意見があれば是非ともコメントに書き加えていただきたい。そうすることで一層この個々の記事は有益なものとなるだろう。

また、内容については一定期間後に再度更新したりする可能性もあるが、追記や削除はその痕跡がわかるような形で行っていくつもりだ。

 

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Martin Mulsow (2022) Überreichweiten. Suhrkamp.

www.suhrkamp.de

 

 初期近代ヨーロッパの思想史(Geistesgeschichte、intellectual historyhistory of ideaを含む)、もしくは学問文化の歴史(history of science culture)、いや、より適切に言えば知識史(Wissensgeschichte/ history of knowledge)という分野がどれほど日本語圏の人々に周知されているかは、全く心許ない。とはいえ、この分野はすでに20年ほど急速な進展を見せている。この進展をリードし、常に意欲的な成果を上げているマーティン・ムルゾー(Martin Mulsow)はこの著作をもって、デイヴィッド・アーミテイジ(David Armitage)らのイギリス系の政治思想史から構成したグローバル観念史とは別に、社会史的伝統に由来する知識史の水準でのグローバル観念史が実践可能であることを見事に示した。こうしてグローバルヒストリーにおいて目指されるのは国際関係の歴史ではなく、間文化的な人やもの、情報の交流の歴史であること、そしてそれゆえに歴史が集合単数の歴史であるならば、それは一つのグローバル史の諸局面が理解されるだろう。

 全五章で700頁を超える(巻末註を除けば500頁弱)。内容は彼がこれまで20年ほど取り組んできたことに密接に関連しながらも新たな局面を見せている。

 例えば第一章では初期近代、ヨーロッパに盛んに輸入されたミイラに関連する歴史を描き出している。その中心にはアタナシウス・キルヒャー(Athanasius Kircher, 1602-1680)とヘルメス主義(Hermetismus)の伝統がある。ローマのイエズス会キルヒャーは当時の情報網を俯瞰することのできる地位にあり、アラビア語文献を少なからず入手していた。そのレファランスを辿って当時のヘルメス主義コーパスの情報提供チェーンを再構成することで、多くのことが見えてくる。この時、ミイラにまつわる船乗りたちの間に広がっていた俗信について取り組んだ二人の人物、アンドレアス・グリューフィウス(Andreas Gryphius, 1616-1664)とジャン・ボダン(Jean Bodin, 1529/30-1596)のミイラ論から始まり、キルヒャーエジプト学的著作の根にあるアラビア語圏のヘルメス主義、そしてインド、新疆へ話は進んでいく。

 このような果てしなく続く知識の歴史の、直接的な連鎖関係を辿っていくこと、これがこの本のタイトルに関せられた言葉 "Überreichweiten" に込められている(Reichweiteは届く範囲、圏域、射程という意味、überは超えるという意味をReichweiteに加えているが、ここでは適切な訳語が浮かばない)。つまり目の前の既に見えている圏域を超えて、ものや人の流れ、そして書物の中のレファランスを追っていくことが求められる。こうして現物の歴史と記憶の歴史は補完的な関係に置かれ、モザイク状に歴史が形象化されていく。

 この本が翻訳されることの意義は大いにあるはずだ。その理由は昨今、グローバル・ヒストリーの意義を強調する潮流に乗るべきだからといったことでは無論ない。第一に、現在ドイツに滞在して感じていることに、西欧中心主義というのはヨーロッパにいれば今でも普通のことだということがある。この本でも仕切りに、西欧中心主義、もしくは西洋中心主義から抜け出て歴史叙述をする可能性を追求する必要があることが強調される。この強調は単に政治的な中立性を意図したものではない。歴史的事実に忠実であろうとすれば、そのようなバイアスがいかに不当であるかははっきりしているからだ。

 あくまで私見だが、19世紀の西洋で一つの形を見たナショナリズムは、それが非西洋の地域に独自の形となって受容されていく、あるいは醸成されていく過程で、内発性と外発性のような観点を含み保つようになったと思われる。第一に国家のモデルや社会において実現されるべき理念があるとしても、それは西欧の伝統や知性に由来するのであり、それを輸入することで植民地主義などの外圧に対抗する必要があるというの典型的な発想は、単なる裏返しであって、その裏返しのナショナリズムは全く異なる思想を生み出す原因となってもいるはずだ。だからこのようなナショナリズムと結びついて構造化される〜〜中心主義は、その都度独自の文脈で形成され、そこから脱却することは、その思想の来歴を無視することによってではなく、来歴との差異の理解を通じてなされるべきである。

 理念であれ情報であれ、ものであれ、その来歴は歴史的事実として理解されるべきだろう。しかしその元々の形がそのまま保存されることは決してない。なんであれ、伝達されたり輸送されたりするものが、そのように存在するために不可欠なネットワークをそのまま移植することは不可能だからだ。

 この本は分量も内容も非常に多い。読み尽くすにはそれなりに力が必要だ。仮に日本語になればずっと読むのは楽になるが、それでも深く広い知識が怒涛の如く現れ、一つの形象をなしていく過程、つまり個々の要素が形をなすことで歴史として提示されていく過程に読者自らが参加しなければならない。そのような経験は歴史に対する洞察する能力を読者自身が養う契機にもなるだろう。したがって、このような本を日本の学生や読者公衆が手に取ることができるようになれば、それは大変意義深いと思われる。

 

 また必要に応じてこの本については書き足していくつもりだ。
 それから、今草稿にまとめているものは、この本に関係する。だがどこまでその方法に倣うことができるかはまだわからない。相当な博学が求められるこの手法をどこまで我が物とできるのか。