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Germanistik, Philosophie(Aufklärung, Phänomenologie, Logik), Biologie, Musik und Kunst

記録:Saskia Klerk (2014) The Trouble with Opium.

最近必要があって初期近代の薬事について調べている。戦乱絶えない時代にあって外科術と鎮痛効果の薬物は重要だ。Klerkのこの論文は、17世紀前半までにライデン大学で醸成されていた実験科学の風土において伝統的なガレノス主義薬理学(pharmacology)がどのような進展を見せたのかについて、マテリアルカルチャーの文脈を視野に収めて論じている。

Saskia Klerk (2014) The Trouble with Opium. Taste, Reason and Experience in Late Galenic Pharmacology with Special Regard to the University of Leiden (1575–1625). In: Early Science and Medicine, 19, pp. 287-316.

doi.org

 

 いずれにせよアヘン(opium)がここで問題となっている。すでに神経の解剖学的研究も行っていたガレノスは、当時アヘンも調査しており、その効果は自らの理論と整合的に説明できると考えていた。彼の理論は基本的にヒポクラテス由来の体液説に分類される。解剖学的研究は人体の構成を明らかにするが、その機能や性質については十分に知ることができないため、その有機的な働きについては別の媒質が必要となる。そこで人体の単位を肝臓、心臓、脳の系列に分離させ血液循環とプネウマの取り込みによって、栄養摂取から理知的な活動に至るまでの人間身体の活動を説明した。ガレノスはさらに四つの体液の巡りや混成が気質や病気の原因となるとヒプクラテスに倣い考えた。そこで食餌や薬の摂取を通じてそのバランスを整えるという発想に至る。ガレノスの薬理学(pharmacology)のコンセプトはこういうことになる。

参考:

医学史とはどんな学問か/第1章 ギリシア・ローマ文明とキリスト教における医学と医療 - けいそうビブリオフィル - Part 6

 ところでこの論文では、このようなガレノスの医学に反論したり、注釈という形で疑問をし付したものによって、アヘンが初期近代の薬理学において根本的な問題として浮上してきた過程を分析している。すでに先行研究でガレノスやパラケルススの批判者であったヤン・バプティスト・ファン・ヘルモント(Jan Baptist Van Helmont, 1579-1644)やユリウス・カエサル・スカリゲル(Julius Caesar Scaliger, 1484-1558)が取り上げられ、ガレノスの理論に見られるテイストと薬効の一致関係にアヘンは適合しないという問題が提示されていたことは明らかにされている。こうした議論を受けて、Klerkはより広範囲の調査をしている。

 Klerkはそこで、レンベルトゥス・ドドナエウス(Rembertus Dodonaeus,1517-1585), ヨハネス・イェウリニウス(Johannes Jeurinius, 1543-1601)、 アドリアヌス・スピゲリウス(Adrianus Spigelius, 1578-1625), ギルベルトゥス・ヤッカエウス(Gilbertus Jacchaeus, ca. 1585-1624)の四人のphysistに注目することで、彼らが同時代の、例えばレオンハルト・フクス(Leonhart Fuchs, 1501-1566)の、薬事関連の著作に基づき、ガレノス主義薬理学を発展させていった過程を描き出すことを試みている。 

 ここで鍵となるのはパドゥアにおける医学研究の伝統であり、それをモデルとして整備の進んだライデン大学の知的環境である。Klerkはヨハネス・ヘウルニウス(Johannes Heurnius, 1543-1601)の、1592年に出版された『医学教程(Institutione mediciniae)』を一つのマイルストーンとみなしているようだ(ただしKlerkが示す通り、ライデン大学の庭園も解剖学劇場も1590年代に入ってから整備されたのだから、知的交流がperegrinatio medicaの過程で生じていたことは否定しようのない事実であるとはいえ、ライデン大学がその後発の部類にあることがかえって重要なのだということになる。彼が取り上げる人物たちも、Heurniusもこうした整備の最中か後にライデン大学にいたのであり、その前はHelmstedtやParis、そしてもちろんPaduaやBolognaにいた)。いずれにせよ、ヘウルニウスの教科書がこの時代のガレノス医学の発展を反映し、のちの時代のレファランスとして機能したことも確かだろう。

 さてここからがこの論文の肝心なところだ、一旦ここまでにする。