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Germanistik, Philosophie(Aufklärung, Phänomenologie, Logik), Biologie, Musik und Kunst

覚書:百科全書に関して

Twitterにポストしたものをいくつか説明を加えて

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「定義:百科事典とは、人間が生きる中で学ぶ必要のある全ての領域、簡単にいえば、全世界を、一貫して体系化したものである」Johann Heinrich Alsted (1588-1638)が自らの7巻からなる "Encyclopedia" (1630) で示した百科全書の定義は、方法という概念を同時に明確にしている。René Descartes (1596-1650)の "Discours de la méthode" の7年前に書かれ、方法という概念を介して学知のあり方が反転することになる。とはいえ、Descartesは確かに幾らかの点で新しいのだが、彼の新しさが本当のところどこにあるのかを十分に理解している人は、そこから何百年も経った今ではわずかだろう。

 だがこの反転構造をさらに覆すのがAlstedからおよそ100年後、Ephraim Chambers (1680-1740)が "Cyclopedia"が見せた相互参照構造である。確かに相互参照構造は、別の形の書物にもすでに見られた。つまり、書評誌やカレンダーなど少なからぬ書籍が、すでに読者公衆の間の相互参照が可能な構造をとっていた。つまり情報の双方向性である。だがここで問題になるのはむしろハイパーテクスト的性格であり、書物の内部における相互参照性である。

 これはAlstedのような従来の学知のあり方とは異なる。そこでは単純に二分法が分岐構造を生み出し、体系化が図られ、無数に枝葉末節が増えていく過程で、単一なる一点から知が構成されていく。話は少し戻るが、このことが示すのはDescartesの新しくない点だろう。

 ともかく、二つの相互参照性を共に取り入れたと言えるのが15年後のDenis Diderot (1713-1784)によって推進され、自らも記事を書いた百科全書である。

 このような形でしかし、方法はテクストの上を滑っていく言葉になったとも言える。より正確にいえば言葉やすでにそこにある情報の流通と組織化の問題に変わった。世界からどのようにデータをマイニングすることができるのか、という世界へのアプローチの手段が持つ可能性についてではなく、世界に対するパースペクティブの取り方で偏光板のように像が変わるとするなら、その表象の間の整合性や矛盾を論じることで、立体化することができるということになる。だがそのような計算機は、人間の側にではなく神の側にあるという理解が初期近代の一つの到達点だっただろう。

 だが人間側には完全な計算機などないので、情報を枚挙的に処理していくわけにはいかない。ここで記憶の捉え方も変わりうる。より経験を重視する人々にとって、記憶は概念に抽象化される。ここで抽象化はほとんど単純化と言っても良い。つまり記憶像の中の共通性を単位として構成することを言う。記憶は一定量の蓄積に伴い概念へ転じる。このことで世界の描像は単純化可能となり、また共通知識に基づく伝達も可能だと考えることになる。そして忘却の可能性が浮上する。

 しかし一見奇妙なのは、記憶とは知識と同様に叙実的な心的状態であるのに、知識以上に経験的世界との一致を必要とする。知識は確かに真であるというために経験を必要とするかもしれないが遊びがある。なるほど、どんな経験主義者も、純粋に経験からのみ知識を得ているわけではないだろうという見方もあるわけである。いずれにせよ、記憶は、世界をカメラオブスクラで模写したイメージの蓄積ではなく、感覚を通じて脳にあるだろう魂が想像したものに過ぎないのである。直接的、物理的に魂と連絡がない。これは意識といってもいい。このギャップについて考える限り、記憶の叙実性は、あくまでそのような心的態度であるというだけで、autopsieは相互的な検証を意味するだけであって、何人も同じように信じられ、疑われるべきであるというだけでになる。

 だが、記憶は確かに永遠なるものではない。では世界が完結した知識をそこにそのまま用意しているということにはならないのだろうか。しかし、記憶から導き出される法則性が、記憶の束を構成するための原理として、無数の像を貫く槍であるならば、この法則性が崩れない限りは記憶の累積は、一定量で十分ということになる。そして外挿も可能だろう。記憶は記憶を生み出すことができるのである。だから普遍知としての数学がこのための道具であるならば、数学は記憶なき記憶のための記憶術とみなされても自然である。裏返せばいかなる忘却も許される。再び同じ記憶を、記憶なき記憶からサルベージすればいいだけであるから。

 問題は数学にせよ自然学にせよ歴史学にせよ、それはeruditionではもはやないということだ。蓄積されるもの、学習されるものではない。それは学習されなくてもいい。蓄積もされなくてもいい。その都度再生することができるならば、再構成できるならば。しかしこのような方法を取るならば、初めの地点を過信することは許されない。そこにすでにある記憶の蓄積が適切なサンプルを提供しているとは全く限らない。だから経験を信じていたはずが、いかなる意味でも経験から獲得された知識からその外へ抜け出ることを許さないようになるだろう。踏み込んでいえば、その限りでいかなる知識も投影に適したものとはいえない。私は何かを知っていることを知っているとはいえない状態に陥る。これが懐疑である。

 世界の構造と記憶の構造の不一致が、世界と経験の亀裂が大きいほど、学問はそれだけ自律していく。その時学問は情報の寄せ集めとしては維持できず、文献学はその不可能性を辛くも批判し、理論が求められる。理論、それは経験なしに獲得できる知識だが、より適切にいえば、これからの経験を信じうるものにするために必要な、経験を捨ててもなお可能な知識であり、また、ここまでの経験をただ信じるだけに陥らないために必要な、経験を貫く知識でもある。

 私たちは常に他者に対し、世界に対し偏った経験のあり方から一つの輪郭の曖昧な像を形成する。このバイアスには経験自体のバイアスと、記憶の方法のバイアスが含まれ、統計や方法論はこの両者を改善する可能性がある。いずれにせよこの像の修正が求められるまで、情報は情報のままで学知とならない。どのような形の知識でも、経験だけが頼りであるということは決してない。Georgius Agricola (1494-1555)が鉱物学を論じたあの本で、鉱山夫に必要な教育の過程を最初に述べていたことは適切であり、鉱山夫として必要な知識を獲得するためにも必要な知識がはじめにはある。

 こうして得られた知識が真理であるためには、しかし表象を突破することに対する信仰が必要なのは明らかであり、真理はその意味ですでに獲得されている知識によって自己と世界の関係を再認するためのものではなく、そのような再認を超えて、世界と自らの関係を新たにするものでなければならない。ここまで来るともうロマン派の領域に足を踏み入れていることに気づくだろう。焦らずImmanuel Kant (1724-1804)からたどってもいいが、ここまできたら私はやはりFridrich Wilhelm Joseph Schelling (1775-1854)を参照したくなる。

 こうしてある種の学問、つまり18世紀の後半以降劇的な変化を迎えていく哲学という学問は、経験と世界と思われるものの間に走っていた、いやその都度埋め合わせようとされてきた亀裂を決定的にする。基礎を求め徹底的に杭を打ち込むことで、二度と接合することができなくなるほど断絶をはっきりさせる。そして世界と思われていたものは、世界ですらない彼岸となる。世界の前に、経験と非世界の二つの領域を構成する。これは知性界と感性界を問うているわけではに。確かに非世界に抽象の世界を投げ込んでもいい。しかしここで問われているのは、抽象的な名字の実在する世界があるかどうかではない。抽象と具体の対立ではない。そのような知性の働きの妥当性は問われていない。つまり実在論は問われていない。

 ひとえにここで問われるのは、所詮記憶との間に亀裂があってもなお、世界の側にある自然や歴史にどのように到達できるのか、理性能力はそれを可能としているのだろうか、という問題である。私たちは二つの領域を経験のうちに持つことになる。この二つの経験は分裂したまま二度と融和することがない。だがそれは世界との断絶ではない。世界はそこにあるがままだろう。知っているということを知ることは決してできないが。その上でなお世界に至るための学問はいかに可能か。これが哲学の問題の根幹に据えられることになる。いや、新たにというのは強調しすぎだろう。これは新しくはない、その知識の構造においてはなんら新しくはない。では何が新しいのか。それは同時代の人間が確かによく知っていたのだ。