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Germanistik, Philosophie(Aufklärung, Phänomenologie, Logik), Biologie, Musik und Kunst

多重決定

主語を省略するということを理解したとしても、そこで省略されているのは本来の主語ではない。そこに置かれているのは代名詞であり、発話されなかった代名詞に過ぎない。つまり、無音ないし無文字で表現されている、行内の隙間に存在する代名詞が可能なのは、単に文の構造がはっきりしていなくとも文節に従えば意味が解釈できるからでもある。今ここで私が書いていることは、ここで私が書いている言語についてのことだ。

実際この意味での主語の省略というのは不可欠でさえある。文章の主題と主語は異なる。述語や述部が本来帰せられるものがそこに明示的に表現されないからと言って、主語がないわけではない。だがそれは二つの方法で省略可能であり、一つが空白であり、一つはより一般的な方法で、つまり代名詞だ。

代名詞はこの意味で、どの主語と述語の結合においても自由に使えるバイパスとなっているので、コピュラもまたそこで省略されているとさえ言える。つまり、代名詞が存在する以上、そこではすでに本来の主語と代名詞を結ぶコピュラも同じように省略されているはずだ。ということは、少し飛躍するが、ここには代名詞だけが存在する世界があると言える。

つまり、主語となりうる名辞が無数に存在する領域と存在量化を引き寄せる述語の領域(述語が主語の事実存在を要請しているとここでは考える)、その間に、この要請を緩和させるため、時に回避するために代名詞を使う。代名詞はその特定の名辞が、そこにあるようには感じさせないようにできている。なぜなら代名詞は潜在的に、特定の文脈ないし意味論的な世界において特定の名辞を意味することができるものの、その文脈を意図的に無視することでその名辞が意味するところまで及ばないようにゲートキーパーとなっている。そのゲートキーパーが機能している間に、特定の文脈を文彩によって歪めることで、本来の名辞を直接的に理解する必要はなくなる。「それ」は確かに存在しているが、「それ」によって再度規定されるものは選択意志によって事後的に理解されれば良い。

例えばいむべきものがあって、「それ」と指示することにする。「それ」は本来の名辞から連想される文脈がないので、どのようにも規定できる。「それ」は実は神々しい、という風に規定して、全く異質な文脈を結びつけることが可能になる。このような迂回は本来の忌まわしいという感覚を一回無視するためであり、つまり無関心でいるためである。そして無関心でいて、それを実際に確定的にするかどうかは、「それ」が本来の忌まわしいものと結びついているかどうかを決定する過程に踏み込み、決定して初めて確定する、つまりキャリブレーションがここで生じるのだが、しかしこのキャリブレーションは先延ばしさてもいいし、見送られてもいい。されたところで、すでに表明されている「それ」は実は神々しいという表現が全く意味不明なものになるわけではない。全く意味が成立しないとすれば、忌むべきものを事前に名指してしまった場合であり、その異質さはある種の文彩として機能する可能性はあるものの、危険である。意味はそこで遊んでしまうからだ。直接推移的に規定が可能というのは、意味論的なアナーキーもしくは専制を生み出す。だからもしそのような事態を避けたいならば、言語の透明性を追求する純粋言語の探究ではなく、現象学的なコミュニケーションに一旦は止まっておこうと思うならば、そのような推移性を措定せず、代名詞を用いることで、通常の名辞をある程度固定しておくことは義務である。その上で一義的に理解可能な言語使用は、場面によっては説明責任として求められるのであり、私自らの一義的解釈が推移的に伝播していくという考えは全く恐ろしいことを招く。

「それ」がしかじかの状態にあることで、事実そのように規定されているということを、「それ」が本来意味するものにまで及ばせることには必然的な推移関係は前提できない。私たちは解釈の権利を持って、それをそのように配置することを要求することもできるし、合意することもできる。同時に出来する事態は、「それ」が本来の意味に至るまでの選択を行う余地を増やすなり、減らすなり、あるいは維持しておくなり、何らかの決定を迫られている状況である。直接性を回避し、本来指示されるべき対象を何ら規定せずに、しかしその対象を伝達することが可能となったならば、「それ」は大きな役割を果たしたと言える。

さて、このような「それ」、つまり代名詞は、特定の品詞として事前に文法的に理解されている言葉以外でも役割を果たすことができる。少なくともどのような名辞も代名詞として用いることができる。要するに大抵の言語使用の場面で、直示性というのは存在しない。意味したいところの対象を目の前にし、指さしをして示したところで、それは直示的な行為であるとは必ずしもいえない。直示的とは実際どのような状態を言うのか、全く判然としないにもかかわらず、人は勝手にそのような状態を措定して、ある発話について一義的な理解が可能であるとみなしており、実際のところその曖昧さについては、多義性とは決して言われ得ないとはいえ、他者の判断に委ねることになる。

だから会話や物書きの場面で、相手の立場や読者像を想定しましょうという発言がどれほど無意味なものであるかを、本当のところわかっていながら、そのような訓示を垂れる必要があるだろう。というのも、相手を想定すると言うのは、決して文脈を規定するわけでもなく、共通知識なんていう幻想のようなものを前提とした、非常に独りよがりな要求であることには違いない。どう言う意味で独りよがりかといえば、それぞれの聴者や読者が意味を決定できるという独りよがりであり、通常人々は自分が発言すること、自分が何かを書くと言うことを前提として、話す時、書く時に必要なことを述べてしまうわけだが、なぜ自分が聴者であるとか読者であるとして語ることが少ないのかといえば、提供者に会話や読書の契機の成立を委ねるたいと思っているからだ。しかしそのようにして外れてしまう人々がいる。

そのような要求をしようとは思わない人だ。つまりそのような要求は暗黙に、自分たちが用いているフレームが一般化可能であるという尊大な「わきまえ」があるわけだが、そのような一般化可能だという暗黙の前提を全く持とうとは思わない人々がいる。

なぜなら、例えば会話の契機が訪れたとして、その会話の持続、もしくは会話に続く行為が求められる場面にあって、そのような前提は、相手に対する理解可能性の義務を負わせることになるとはいえ、そのような義務を負わせるだけの権利を、つまり相手は私に伝わるように話すように義務付けるような要求は決してできないと考えているわけである。と言うのも、そのような要求をしなければならない時点で、その要求が満たされることが相当程度困難であることを事前に理解しており、そのような不透明性は誰にとっても弁済すべき責任ではなく、単に説明を加えたり何らかの繕いがあったところで埋め合わせられるわけではないことは、はっきりしているからである。

しかしだからこそ一義性の探究を怠ることはできない。そのような人々が理解可能な文章を書くには、むしろ代名詞は必ず正確に十分に用いられるべきである。そうでなければ、直接的な主語と述語の規定が必ずしも円滑になされることがないかもしれない。少なくとも直接的な規定が可能であるならばそうすべきだが、それを避けるべきならば代名詞は必ず十分に機能しなければならない。また、同時にレトリックを操る上でも、同じことが言える。

なるほどどのような文章も一義的に意味の可能性を決定することができる。だがそれは代名詞が巧みに使用できる場面に限る。つまり、どのような名辞もそれほど浮遊しないと考えるためには、その代償として、代名詞がいるべき融通無碍な世界を構成しておかなければならないのである。その単なる記号が、ある主語を規定するということは、ある主語が述語によって規定されるための必然性、つまり哲学的問題を回避するためには実に便利なのである。なぜならそのような必然性を、つまり根拠を何ら要求しなくても良いのだから。

これがそれである。

「それ」がりんごである。

ではなく、

これがそれである。

りんごがそれである。

でなければ代名詞の機能は十分に果たされていない。

つまり代名詞は事前に別の場所にあるものを措定している。相手の頭だとか、とにかく。目の前に共においていある何かを意味するわけではない。不透明性を前提として代名詞を使うときに、代名詞が果たすべき役割が十分に果たされれば、何ら必然的規定への要求も正当化も不要となる、何ら恐れのないコミュニケーションが可能となるだろう。

従って代名詞は二重の論理構造を持っている。一方から他方へと推移していくわけではなく、他方からこのように規定されるだろうものを措定して、それを単に代名詞によって規定する。そのことでその規定を一旦宙に浮かせておき、再度自らその代名詞を規定する。そうして両方から集合する地点に代名詞はある。だがこの地点というのは何も存在しない空白の世界である。あたかもそこを通過すればもう一方へ行くことができると錯覚することもあるだろう

だが日常的に、思い出すことが困難な対象について語ろうという時、

ああ、あれ、あの人、〜〜だった人。あの人がこうでああで、どうだった。

ああ、〜〜さん。あの人はそうだねえ。

といった「あれ」から始まることができるというのは、定冠詞から派生する関係代名詞と同じことである。より明確にいえば、代名詞は常に関係代名詞的にしか機能しない。しかし文章は切らなければならないこと(なぜなら一人が延々と一つのことについて話すわけではないのである)。あるいは主語を代名詞で規定するということ自体のまどろっこしさを避けることも賢明であり、結果的に代名詞は不可欠だ。しかしその代名詞が実際に言葉としてどのような形を取るべきなのかは必ずしも一致しない。それが定冠詞、もしくは任意の対象を疑問文の形で聞くために用いるべき疑問詞やそれに類する冠詞類を用いることは、言語の節約として機能的であるし、もしくは何ら転用可能なものがないならば空白のままにしておいてもいいだろう。その空白から文脈が始まるというのは当然である。誰もが誰かに会った瞬間に一呼吸を、長かれ短かれ、置くからである。