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記録:Theodore Sider (2003) What's So Bad About Overdetermination? - 多重決定 (2)-

前回の続き

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多重決定overdeterminationという概念は、例えば因果的多重決定という使い方がされ、分析形而上学の議論やそれを用いた心の哲学などの議論では定番テーマの一つだ。少なくとも半世紀ほど絶えず議論されてきているし、メタ形而上学の著作 "Writing the Book of the World" が楽しいTheordore Siderの2003年に書かれたレビュー論文なんかはものすごい引用数だ。件の論文 "What's So Bad About Overdetermination?" で彼はTrenton Merricksの議論を引いて、さらに心の哲学の問題に踏み込んでいく。Merricksは "Objects and Persons" でメレオロジカルな議論で非生命的な事象や個体の概念を掘り崩した。Siderは、Merricksがoverdeterminationを鍵に全体と部分という観点から物理的事象が存在しているという見解を掘り崩す点にMerricksの議論の独自性を認めている。つまりマクロにそないしている非生命的な存在は、全てミクロな次元解体していけば多重決定を防ぐことができ、多重決定のない理解は健全であるというわけだ。

ここでMerricksの議論に従ってSiderが引き合いに出すのが、causal exclusion argumentである。いわゆる非還元主義的物理主義といった区分に投げ込むことのできる議論に対し展開されたKimがぶつけた当該のargumentでもやはりoverdeterminationが問題となる。

古典的かつ伝統的な要素を含む議論であるとはいえ今でも議論され続けている非還元主義的物理主義は、Hilary Putnamなどによって主張されてきた。要するにタイプ同一性理論と言われる彼らの議論において、Instansとして異なる物理的因果と心的因果はTypeとして同じであ離、ある行為はこの同一のタイプである二つの過程によって決定されるということが、そこでは主張される。

(この種の議論は、タイプとは本質ではないにしても、そのような概念が存在しているかどうかを人は通り過ぎてしまうことに注意がいる。つまりタイプとして同じということがインスタンスとして同じという理解に転じることはありふれたことだ。このことは以下の記事も参考。構成概念でしかない認知概念を追求することで、それを本質と錯覚する認知バイアスに陥り実験の再現性が脅かされる。ただしタイプ同一性理論は行為の決定の過程をめぐる議論である以上、概念が健全であれば認知バイアスを招くものではなく、物理的過程における顕著な差異はタイプの差異を示唆する以上、心に属す独自の概念についてはその分析に意味がないと言っているだろう)。

www.note.kanekoshobo.co.jp

タイプ同一性理論では、インスタンスとしての物理的過程と心的過程が区別される。つまり非還元主義的物理主義の理論的な柱はただ一つこの区別にあるということになる。そしてこの柱は多重決定を基礎としている。Putnamは多重決定についてはさまざまな仕方で議論してきた。

ここで肝心なのは主観的かつ現象的な要素だ。例えば幻肢の主観的運動は、確かに脳に運動機能が存在しているとはいえ、幻肢の主観的運動は現象的には行為であり、その行為はある部分までは確かに物理的過程に還元できるが、そうではない部分に至るとタイプ的な同一性は認められるが単に心的過程しかないように見える。もちろん運動の経験自体、つまり経験的意識を物理的過程として実現している部分のみ求めることもできる。所詮どんな経験的意識も構成されていると考えることもできる。実際

exclusion argumentの議論の方が、Merricksより穏健とも言える。overdeterminationの中でも、いいものと悪いものがあり、物理的なobejctの間の多重決定を問題視することはない。単に心的因果と物理的因果の多重決定はあり得ないということがここで言われている。

以下を参照のこと。

iep.utm.edu

Merricksはこの区分し、Siderはその反論に同意している。この区分が説得力を欠き、むしろ全ての複合的といえる事物に当てはまるのならば、この世界に本当に存在しているといえるのは単純実体だけだ。そうなった時、多重決定はいかなる意味でも存在しないということになる。

だが果たしてそうだろうか。なぜ単純実体しかなかった時、ある事象は単純実体が一対一で作用し合うことを仮定できるのだろうか。この仮定は過度に対称性を重視している。実際は対称性が崩れたところにしか、連続的かつとめどなく生じる事象は現れないだろう。つまり彼らはむしろ、多重決定とそうではない決定を事前に峻別することで、多重決定を複合体の要素とみなしていることになる。だが、そうであるならば、いかなる構造も性質を持たないためにその構成要素の性質すら消し去っていると理解すべきであるということになる。そもそもKimが創発主義について議論するとき、このようなナンセンスを回避しようとしているように思われる(下記書誌情報参照:この論文は昔読んだが、また別記事でまとめる)。加えて、構造には単なるパスウェイも含まれる。そうであるから、多重決定とそうではない決定の弁別はますますとリヴィアルなものになるだろう。つまり、Merricksの議論にもそれに同意するSiderにもここでは同意できない。メレオロジーとメカニズムは別の話だとここでは考えている。またこの点についてはCowlingの以下の文献も参照。

Kim, Jaegwon. “Making Sense of Emergence.” Philosophical Studies: An International Journal for Philosophy in the Analytic Tradition 95, no. 1/2 (1999): 3–36. https://www.jstor.org/stable/4320946
Cowling, Sam. "No simples, no gunk, no nothing." Pacific Philosophical Quarterly 95, no. 2 (2014): 246-260. https://doi.org/10.1111/papq.12027

だがなぜoverdeterminationがあってはならないのか、というのがSiderの議論である。Siderはoverdeterminationを拒絶する議論のパターンをいくつか示している。

Metaphysical objection:overdeterminationが形而上学的に見て一貫性がない。

(ここで形而上学とSiderが読んでいるものは、基本的に自然な事物の分節を可能にするような存在論のことで、何から事物が成り立ちどのような作用がありえるのかなどを、理論的に整合性のある世界を構築できる固定化されたフレームの要素として組み上げる議論のことだ)。Siderはexcluison argumentの背後に、多重決定を言う非還元主義だけでなく、随伴説(epiphenomnalism)への懸念もあるが、その際にはそもそも随伴現象(例えば心的事象)と因果的事象(例えば物理的事象)の区別を行っていた随伴説の議論を、心的事象が因果性を持つかどうかの議論へ変化させられてしまっていると指摘する。だからexclution argumentがepiphenomenalismに反論するとしても、そこではすれ違が生じるのだが、そもそもmental causationを排しない限りepiphenomanalimの主張は多重決定と区別されず、正当化されることもない。

そもそも因果推論の上でどのようなノードが形成されるか、つまりある事象に関わるそれぞれの要素の因果関係をいかに定めるかは、事前に自明な個体を想定する必要はない。例えば、

1) ある二人の人物AとBが理想コインを理想機械にかけ、表が出たらがAが古くなったケーキを食べ、裏が出たらBが新しいケーキを食べるとする。そして結果Aが新しいケーキを食べ、Bが古いケーキを食べてBは腹を下したとする。この時Bが腹を下した至近の原因は古いケーキを食べたことにある。だがBはコインが裏を出したことを恨めしく思うかもしれない。そもそもこのルールを提案した自分を責めるかもしれない。あるいはケーキを冷蔵庫の奥にしまったままにしたAの責任を追究したくなるかもしれない。いずれにせよこうしたものは遠かろうとBの食中毒の原因をなしているはずだ。このような原因論的(etiologocial)説明は、少なくとも、コインの裏表を結果に至る過程に加えることはできるが、しかし必然性を要求されるならば、コイントスに関するルールとその結果は二人に等しく可能性を与えているので、ある種の形而上学者にとっては無視可能だろう。そのような人からすれば、Bは単に古いケーキを食べたこと、いや、そこに繁殖していた菌の出した毒素などによって食中毒になったということになる(しかしそれとてBの体調も考慮すべきで、より詳細な化学的分析を要求するということになるのだろう。だが食中毒の発生をキックオフした後、実際に症状として全身にさまざまな影響が生じてくる過程はそこに含まれないのだろうか。いや、食中毒というもの自体を消去すればそれで済むのだろう)。

2)コイントスをじゃんけんに置き換える。こうすると話はまたややこしいだろう。ここでは割愛する。

Coincidence objection:系統的多重決定は偶然(a coincidence)である。

これについてはすぐ上で議論したことに似ているので割愛。

Epistemic objection:多重決定する存在があると信じることになんら理(reason)がない。

いわゆるオッカムの剃刀みたいなものだが、これについてはSiderがここで展開する以上の議論があるので、ここでは省略し、別の記事にする。ただここにメモしておくべきことは、Merrickがこの論証を展開して多重決定に対する反論の一つの武器にしており、それについてSiderは形而上学的反論や偶然論的反論よりも理があると述べていると言うことだろう。というのもSiderは、この反論は単に、多重決定する存在者を是認する人物へ反論すればいいだけで、存在論的な議論を回避できるから。

ところでこのような回避が歴史的に見て何度も繰り返されてきたことを私たちは知っているし、この回避は確かに哲学の議論がより良いものになっていくために必要であっただろうと私は思っている。

いずれにせよMerricksはなぜ消去主義を取るのかという目的意識も確かに考慮に入れるべきだろう。それでもSiderは非生命的なマクロ存在者があるという主張を次のように擁護できると考えている(つまり彼は認識的反論への再反論をここで提示している)。三つあるうち二つここに掲載する。一つ目はこう。

i) The necessary principles governing when composition occurs cannot rule out all possible composites since "atomless gunk" is possible (Sider 1993). They cannot be vague; otherwise it could be vague how many things exist. They cannot be non-vague and restrictive while remaining plausible. So tyehy must be non-vague and unrestricitive. So they imply composition in all cases. So non-living macro-entities exist. (イタリック原文)

三つ目はこうだ。

iii) Given the possibility of atomless gunk, non-living macroscopic entities are possible. While not supplying an arguments agains them, namly, arguments based on non-contingent premises.

Siderは正当にも多重決定については認識的反論に限って理があると述べる。それに対する彼の再反論が成功しているかは、彼の議論から結局は多くの問題が取り残されていることだけが明らかにされてしまったと思える以上、判断は一旦保留する。