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Germanistik, Philosophie(Aufklärung, Phänomenologie, Logik), Biologie, Musik und Kunst

ニコライ・トゥルベツコイ『音韻論の原理』1939年(2)

前回記事の続き。

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連続体として存在している音声現象をどのように分析するか、という点で音声学は音韻論による意味論的分節に負うところがあるのは確かである。Trubetzkoyは次のように述べて居る。

Der Schallstrom, den der Phonetiker untersucht, ist ein Kontinuum, da in beliebig viele Teile gegliedert werden kann. Das Bestreben gewisser Phonetiker, innerhalb dieses Kontinuums „Sprachlaute“ abzugrenzen, beruhte auf phonologischen Vorstellungen (durch Vermittlung des Schriftbildes). Da eine Abgrenzung „Sprachlaute“ sich in Wirklichkeit schwer durchführen läßt, gelangten einige Phonetiker zu der Vorstellung von „Stellungslauten“ und dazwischen liegenden „Gleitlauten“, wobei die Stellungslaute, die den phonologischen Elementen entsprechen, ausführlich beschrieben wurden, während die Gleitlaute gewöhnlich unbeschrieben blieben, da man sie offenbar als weniger wichtig oder gar als ganz unwichtig betrachtete. *1

 つまり、音声分析するにも、区切るべき箇所と平滑な箇所を分けるクライテリオンとして、意味論的に対応関係が探られる表象に基づく必要がある。そうでなければ、音声分析するための単位がわからないというのが、彼の主張である。故に彼は、原理的には相互に独立した分野である音声学と音韻論は「避け難く、無条件に不可欠な」接触をするのである。これには彼が談話の前提とする三項関係がある。すなわち、話者、聴者、そして発話されるべき事象である*2となれば、談話は全てこれらの三項によって規定される、それ事態独自性を持つべき事象と見做すべきだろう。この事象は、次のような記述を満たさなければならない。

Wenn wir jemanden reden hören, so hören wir, w e r spricht, in w e l c h e m Tone er spricht und w a s er sagt. Es liegt ja eigentlich nur ein einziger akustischr Eindruck vor. *3

 すなわち、次のような三つの側面から分析することになる、とTrubetzkoyは述べる。

Wir projizieren gleichsam die verschiedenen Eigenschaften des wahrgenommenen Sprachschalles auf drei verschiedene Ebenen: die Kundgabeebene, die Apellebene und die Darstellungsebene. *4 

ここでもやはり彼が、「投影」という語を用いていることには注意が必要である。彼はやはり、知覚された音現象に関して現象学的な態度をとっていると言える。それがそのように手元にあるのかどうか、ということと、それがどのように存在しているかは別であり、より詳細にいえば、音現象が単なる道具としてではなく自然現象の一貫であることも同時に認めながら、それは一つの意味世界(敢えて「環世界」という概念を用いてもいいだろう)に取り巻かれている状態でもあることを意識しているのである。

とはいえ、ならば、音声の分析は先立って意味論的分析を要するのか、という問題がある。これは極めて重要な論点だ。というのも、Clifford Geertzによる「単語」の解釈以来浮上してきた言語間での翻訳可能性への疑念に伴う、間言語的活動に伴う音声のあり方についてである。

 I bring all this up, not because I think words in themselves make the world go round (though, in fact, they have a lot to do with its works and workings), or because I think you can read political history off frim dictionary difinitions in dictionaries (though in fact they are among the most sensitive, and underused detectors we have for registering its subsurface tremors). *5

これに関して、Cliff Goddard & Anna Wierzbickaは、辞書はいかなる歴史的文脈からも中立的な枠組みのうちで編纂されているわけではないので、語の定義は循環に陥ってしまうと述べて居る。*6とはいえ、ここでGoddardとWierybickaが参照する通り、自然意味論的メタ言語(Natural semantic metalanguage)に置き換えたり還元したりすることは果たして可能なのか、私には疑わしく思える。それは記述的で証明的にならざるを得ないだろう。すなわち、discursiveな置き換えになるはずだ。実際、英語における意味論原素(semantic primes)は、関係カテゴリーに集約されることになり、例えばgood, badは評価子(evaluator)、big, smallは記述子(descriptor)、do, happen, move, touchは行為(actions)、事象(events)、動き(movement)、接触(contact)といったように、より単純なカテゴリーにまとめられる。*7

だが3点問題がある。一点は、感情語に関して彼らはPaul Ekmanの普遍感情表現に関する議論を引き合いに出すことだ。ところが彼の議論は目下、Lisa Feldman Barrettら構成主義的心理学者たちに異論を突きつけられている。私たちは言葉が先か、思考が先か、社会文化が先か、自然的素性が先か、という素朴な問題に付き纏われることになる。だがこれをはっきりと分けようとすることは無意味かもしれない。これはこの後示していくように、Trubetzkoyの議論から示唆されると思っている。

また次の点は、そもそも語は多義性を持っていることが常であるということだ。

第三の点は、そのようなメタ言語での概念的意味論は言語をしばしば道具主義的に捉えてしまうということだ。実際Wierzbickaは、"Semantics. Primes and Universals" (1996)の冒頭で、次のように述べている。

Language is an instrument for conveying meaning. The structure of this instrument reflects its function, and it can only be properly understood in terms of its function. *8

だが果たして言語は意味することを担う道具なのだろうか。このような言語理解はある時代から醸成されてきたものに過ぎないのではないか。このような道具主義的言語観は言語改造や言語政策と常にセットで語られてきた。歴史を振り返れば法的な観点から言語の発音や形態に変更が加えられてきたことは珍しいことではない。簡明に言語政策を論じたルイ=ジャン・カルヴェは次のように述べている。

言語を装備し、言語環境に介入し、それを法制化することが問題となれば、言語計画は、常に生体のなかで生まれて来た現象を引き移すものとしての実験室を構成することになる。言語学によれば、言語は法令によって作られるのではなく、歴史と話者の実践の産物であり、歴史的、社会的な圧力を受けて変化する。ところが逆説的無ことに、人間は誇りを持って言語の変化の過程に介入し、物事の流れを変えて、変化を生み、それに働きかけようとするのだ。*9

さて一方で、Geertzのこの解釈をまともに受け止めるならば、ここでさらに導入されるべきなのは、概念的意味論と辞書的意味論の区別である。先にTrubetzkoy自身による考察を引き続き見ていくことにしよう。まず彼によれば、知覚された文の内容は、文を構成している単語の言語形態における辞書的・文法的要素との関連においてのみ、理解されることになる。加えて、聴取の側についても、発話者によって意図された、発話がもたらす感情的効果(emotionelle Einwirkung auf die Hörer)が認められるが、これも言語形態に属す一種の規範や発話価(Sprachwerte)に基づく。

ここには話し手の意図と、予め発話行為が組みされている言語形態に、同列に編成されている規範の存在がある。つまり発話行為は、構音規則、予測される印象、辞書的意味、文法的意味、といった種々の側面から制約されて可能となるのであり、その限り私秘的なものではないことが強調されている。にもかかわらず、結局のところこれらが表明手段(Kundgabemittel)を成立させる条件である以上、音韻論において関心の対象となるのはまさに、表明手段のみとなる。より明確にいえば「慣習的な記号体系として理解される言語形態の音声的側面に則した表明手段(die Kundgabemittel an der lautlichen Seite des als konventionelles Zeichensystem gefaßten Sprachgebildes)」に関心を絞っている。

 とはいえ、この表明されるものは、観相学的に汲み取られるものではない。声質から読み取れるものはさておき、音韻論で問題となるのは、「ある特定の言語の慣習的に固定された記号体系」であり、例えば健康状態や性格、体格の反映された声色などは単に「言語外の音声活動に際する症候的な力」に過ぎない。あくまでそれはシャーロック・ホームズの領分であって、音韻論が取り扱うものではない(ただし、こうしたものに慣習的な固着が認められる発音上の特徴があれば、それは考察の対象になるのだろうか?)。少なくとも彼が想定しているのは、年齢層や社会階級、性別や教育レベル、出身地、などなどである。つまり、一定の言語共同体(Sprachgemeinschaft)の構成員であるが故に生じると考えられる発音上の特徴を扱うのが音韻論だ。*10

 

Semantics : Primes and Universals (St. in Classification Data Analysis)

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  • 作者:Wierzbicka, Anna
  • 発売日: 1996/03/28
  • メディア: ペーパーバック
 
言語政策とは何か (文庫クセジュ)

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*1:Trubetzkoy, S.16.

*2:これはKarl Bühlerによって提示された枠組みだという。

*3:Trubetzkoy, S.18.

*4:ebd.

*5:Geertz 2000, S.234.

*6:Goddard & Wierzbicka 2014, p.2.

*7:Goddard & Wierzbicka 2014, p.12

*8:Wierzbicka 1996, p.3

*9:ルイ=ジャン・カルヴェ『言語政策とは何か』西山教行訳、文庫クセジュ、2000年

*10:Trubetzkoy, S.20.