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ハイブリッドに対峙する:COVID-19関連論文・記事の要点(3)

前回記事までの続き 

 
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今回は動物と人間の関係から感染症に関してコメントしたジェーン・グドール氏の発言を取り上げるところから始めたい。

www.afpbb.com

グドール氏は電話での質問に答えただけなので、その文量は決して多くはないのだが含蓄に富むことを述べている。氏は本来動物行動学の中でも霊長類研究と動物倫理に関する業績に富み、疫病関連での研究は特にないように思われるが、非専門家であれ、その知見がいかに貴重なものであるかがよく理解できる。

まず、氏は次のように切り出す。

 われわれが自然を無視し、地球を共有すべき動物たちを軽視した結果、パンデミックが発生した。これは何年も前から予想されてきたことだ。
 例えば、われわれが森を破壊すると、森にいるさまざまな種の動物が近接して生きていかざるを得なくなり、その結果、病気が動物から動物へと伝染する。そして、病気をうつされた動物が人間と密接に接触するようになり、人間に伝染する可能性が高まる。
 動物たちは、食用として狩られ、アフリカの市場やアジア地域、特に中国にある野生動物の食肉市場で売られる。また、世界中にある集約農場には数十億匹の動物たちが容赦なく詰め込まれている。こうした環境で、ウイルスが種の壁を越えて動物から人間に伝染する機会が生まれるのだ。

 これはあまりに真っ当で、的を射た指摘であり、何も付け加えることがない。既にこれまで、この発言を裏付けるような研究は数々なされてきた。あるいは歴史を振り返れば、ペストや狂犬病、そしてコロナウィルスの一種であるSARSなど、動物と人間の関係を考慮しなければならなかった感染症は数々ある。今回のCOVID-19とは別の件となるが、さしあたってアクセスできる研究をここで少しずつ辿ってみよう。

 とはいえまず、バイオセキュリティーの概念について、バイオセーフティーと対比し、またリスク倫理に関連させて、以前少しばかり紹介した。

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とはいえ、ここでより詳細にしておくのは十分意義があることだろう。

Collier, S.J.; Lakoff, A. & Rabinow, P. (2004) Biosecurity: towards an anthropology of the contemporary. Anthropology today vol. 20 No. 5. 

 この論文によれば、冷戦を背景としてアメリカで発展してきたバイオセキュリティーの分野は元来ゲノム研究の枠内で発展してきたという。この範囲では未来に可能な、対象に起因する内在的性質と技術的発展の可能性の中で生じうる、仮想的なリスクを扱うものとして統制可能な営みを対象にしていたことがわかる。とはいえ、9/11同時多発テロ以降は、テロリストによる生物化学兵器の使用に対する警戒に基づいて研究が方針づけられた。つまり、ある種の予防原則が示すように、予め潜伏しているかもしれない、全く予期せぬリスクをも対象としなければならなくなる。

 そして 今日では更に、グローバリズムに内在する問題として扱われることになる。つまり、グローバリズムは常々単なる経済的格差を議論する文脈で扱われてきてもいたが、そこで培われたヘゲモニー論などが、そのままここ30年の気候変動や環境破壊を巡る論争と同じくバイオセキュリティーの議論全般にも転用されることなる。

 逆にいえば、グロバーリズムのなかで政治経済における覇権にある諸国家やその国が抱える軍隊や企業ほど、そのリスクに晒されてきた、いや、そのリスクを自ら生み出し、増大させ、そしてそれに備えてきたと言える。つまり、冷戦後の安全保障体制の組み直しの中で、たとえば米軍が行ってきた種々の営みの中に、それは反映されている。セキュリティーとはつまり技術そのものへの管理体制をいうわけである。

The specific and contingent dimensions of an emergent response can usefully be thought of in terms of the formation of an 'apparatus'. An apparatus -- another Foucauldian term -- is 'an articulation of technologies aimed at first specifying [...] targets and then controlling (distributing and regulating) them' (Rabinow 2003).

だから、バイオセキュリティーとは、この管理体制が敷く境界を超えて生物学上の技術管理上の欠陥を顕にする「危害」の搬入者(carrier)を確定ないし想定して取られる措置に他ならない。

 とはいえ、これはもはや「リスク」と呼べるのだろうか。繰り返しにはなるのだが、リスクは単に災厄(danger)とは異なる。著者たちはニクラス・ルーマンを引き合いに出し、我々の制御を超えた原因からもたらされる、想定可能な危害を災厄と呼び、我々が対処に際し意思決定可能なものをリスクと呼ぶ、と規定している。そして重要な指摘だが、近代は大体の危害を後者とみなす傾向がある、という。科学や安全保障の現場に対し人類学は、リスクへの対処の正しさを直接的に判定するような「一階の参与観察」ではなく、それの外部へと滲み出てくる、あるいは内部へ浸潤する災厄の動態への「二階の参与観察」が可能であるだろう、と言った旨の提言で論文は締められる。つまり、これをいかに縮減するかが、実際上必要な対処を円滑にするかにもつながるかもしれないのだ(が、それは絶対ではない。それどころか掘り崩される可能性が十分考慮できる)。

 ここで思い出すのは、バイオセーフティとバイオセキュリティーの区分である(Reydon 2015)。結局のところ、私たちは何かと前者を考慮することで何らかの生物学上の危害を解決できると考えてしまう。たとえば特定分野の専門家が議論し対処すれば、ワクチン開発や薬剤の発見などで感染症は解決可能だと、迂闊にも考えてしまう傾向がある。だが、それならなぜそもそも今回のCOVID-19のようなパンデミックや、それに伴う悲劇的な大量死が現に起こってしまったのかを説明する事はできない。つまり、専門家や科学者の意思決定や政策提言が透明化されているわけでも、容易に浸透するわけでもなく、また一方で、彼らの人的リソースと技術的制限から、ワクチンや薬剤の開発に時間的・能力的な遅延が付き纏う。当たり前だが、万能ではない事は明白である。加えて、実際に現場で医療にあたるものたち、感染症の罹患者やキャリアの動体、経済政策、先行きのみなさからくる精神的危害(そしてパニックや買い占め)など諸々を考慮すれば、一体全体ウィルスを巡って私たちはあまり似たような動きをしていて、その過程でセキュリティー上の問題は噴出する。

 Parisa Aslani (DOI: 10.1111/hex.13052)は「バイオセーフティー」の向上を訴えて次のように述べる。

    Our efforts to overcome the COVID-19 outbreak have included research in identifying and better understanding the virus, developing a vaccine and identifying drug targets. It has also led to the development of professional guidelines, public health information and initiatives.

だが、続いて述べられる事柄は、ここで「バイオセキュリティー」で問われてきた事柄に対する提言である。そしてそこで述べられているのは、個々人の行動に対する政府やヘルスケアサービスの働きかけに関する疑念と呼びかけである。

Promisingly, we have seen governments and health-care systems mobilized into action to prevent the spread of the virus—this has been the primary goal in the past three months. However, has there been a person-centred approach to the actions taken to date? [...]
    The motivation to adopt appropriate public health behaviour is high—people do not want to contract the disease, which could be fatal in some cases, nor do they want to be restricted in their move- ments and contacts, or be in quarantine, whether forced or self-imposed. In today's world, where our economies are interlinked and travelling for leisure and business is an important part of our lives, global citizenship will underpin our responses and expectations. We continue to expect accurate, trustworthy and consistent information we can understand and act on.

なるほど、感染症アウトブレイクが既に生じてしまっている今、それは深刻な意味を持っているのだが、果たしてそれが真に「セキュリティー」への解決の提示となるかどうかは、微妙なところなのである。それらの行動は、既にそういう段階を超えてしまっているように思える。

 そして問題は森林や動物である。彼らはテロリストではない。彼らは彼らの営みを続けるだけである。だからこそ、生物技術の管理による境界設定を容易に超えてくる存在でありうる。グドール氏が述べたように私たち自身の干渉が、そこにいわば乱流を作ルことになり、そこで生じる種々の混交の結果、ウィルス進化は容易になる。彼らは新たなウィルスの生成現場として、生体実験場となってしまう。しかも誰によっても意図されず、設計されることなくそうなってしまう。ウィルスの進化や変異もまた自然の成り行きに過ぎないからである。そしてそれは人間には決して与り知らないことなので、セキュリティー上の穴となってしまう。まして、非-人間(non human)に対して事前警告(precaution)をとる事はできない 。むしろ事前警告を受けるべきは、上述した国家や私企業、そして専門知識の担い手自身にほかならない。ここには社会的存在としての応答責任(responsibility)が確かに存在する。逆にいえば、新たな感染症の「リスク」は社会と自然のハイブリッドにこそ属しているのであり、そして感染症拡大に対する私たちの営みはこのハイブリッドに対峙しているというわけになる。

 果たしてこれは道徳的であるがゆえに忌避されるべき事なのだろうか。とはいえ道徳的な非難は、帰責問題とは一応切り分けることが可能である。 しかしそこに社会的感情が伴う場合には、それは道徳の問題となる。だが、職業上の責任問題は、懲罰とは別に明確に検証される必要がある事は明らかである。それを免じる事自体が、もはや社会的感情に基づく人格の道徳的保護に過ぎないのである。

 では繰り返しになるが、動物にそのようなことを問う事はできるのか。それは無理である。だからこそグドール氏の発言の意義深さがある。

 動物に人格上の道徳責任も、職業上の帰責はないし、日頃の行動制限もあってはならない。むしろ破壊的な抑圧によってこそ、災厄の可能性は増しているというジレンマをグードル氏は的確に指摘している。

 既に字数が来てしまったので、次回以降次の論文を扱っていくことにする。

Andrew Donaldson (2007) Biosecurity after the event: risk politics and animal disease. Environment and Plan A 2008, Vol. 40, pp. 1552-1567.  doi:10.1068/a4056

Hinchliffe, S. & Bingham, N. (2008) People, animals and biosecurity in and through cities. In: Harris Ali, S. and Keil, R. (ed.) Networked Disease: Emerging infections in the global city. Oxford.

Robert Fish et al. (2011) Uncertainties in the governance of animal disease: an interdisciplinary framework for analysis. Philosophical Transactions of Royal Society B.  doi:10.1098/rstb.2010.0400

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